(雑記)穢れと日本人と言う話

 先日、福井新聞を読んでいたらそういう感じのコラムが掲載されていた。どなたが書かれたのかは失念してしまったのだけれども、宗教家の方だったか? ちょっと記憶が混同している。

 その要旨はこうだった。
 東日本大震災で発生し、今なお懸案となっている福島第一原子力発電所事故。これにより広範囲の地域が放射性物質に汚染された。セシウムは流せばなくなるものではない。水に流す事が出来ない穢れである放射性物質に日本人は苛まされており、これは日本人のアイデンティティーを見つめなおす契機となるかもしれない。
 もちろんこの要約はその読後に色々頭の中でこねくり回した話であるので、その内容が変異している可能性は充分にある。残念ながら何時の新聞だったか、それを取り置くことを忘れていたために正確な内容はわからないし、そのコラムを書かれた方の他の文章も読んでみたいところではあるのだけれども、その手段も今手元にはない。図書館にでも行って調べれば良いのだけれども、それを行う体力もない。

 さて。
 ここしばらく人力検索はてなの方でkoko24さんの質問にお付き合いさせていただいている。
 今回のお話はこれ。
http://q.hatena.ne.jp/1316779717
 問題となっている文章は典型的な『血液浄化商法』の一つであろうとも思う。ただし、今回問題となっている商品は従来のそれとは違い、それほど高額な機械でもない。『玉ねぎ食べて血液サラサラ』とか、『この食品を取り続ければ万病の元となる動脈硬化が回避できる』とか、そういった話は彼の『あるある大辞典』などでもよく取り上げられ、健康番組などではもはや定番な気もする。……以前チラシを見ていたらふとん屋さんが採血して血液の粘度を測るのだという話を見て、おいおい大丈夫かと思った事もあるのだが、この辺りも『穢れ』に纏わる話なのかなぁ、とも思っている。

 『目に見えない何か』が『あなたの健康を阻害する』という話は、その何かが五感では凡そ捉える事が出来ないことからその話を受け取った人に大きな危機感を与える。
 訪販などでは『ニードストーリー』というものがある。これはその商品が顧客に必要であるのだと訴えるための話を指す。そしてそれは大抵顧客の危機感を煽る内容となっている。台所乳酸菌液でセシウムを体外排出という話もあった。そこにセシウムはあるのか? それをその受け手は知る術がないのだが、連日セシウムセシウムと聞かされていれば、それはあってもなくてもあるものと認識されるだろう。だからそれに危機感を覚えている人たちはそういういものに飛びつく。『穢れ』をはらうために『禊ぎ』を求める構図なのだろう。この場合、その行為によって何らかの反応が出ることはそれが利いている証拠として歓迎される事すらある。水垢離は寒さに震えなければ意味がないのだ。

 そういう辺りにおいて、彼のコラムは秀逸だったと思う。『穢れ』を『疎む』国民性は様々な問題に蓋をし、放置し、理解し改善しようという態度を遠ざける。そのお陰でどれほどの問題が今私たちの目の前にある事か。人々はそれをないものとして生きてきた。解決を求めるものの、その解法は考えない。この辺りはお上思想になるのかも知れないけれども、その態度はやはり穢れを疎む志向から成り立っているようにも思える。


 原発の安全をと叫ぶ人々。安全神話という仮想に全てを委ね、騙されたと泣き叫ぶ人々。全ては電力業界や官僚、科学者が悪いのだと憤る人々。今回読んだコラムでなんとなくその背景が見えた気もする。