私信のようなもの、補足『どうせ試験に出ませんし』

 先日の佐世保での小学生による同級生殺害事件について、政治家やコメンテーターは『バーチャルな世界と現実世界を混同した』という趣旨の発言を繰り返していたように思う。私は、これを見ていてなんだか虚無感に襲われた。少女は、チャットや掲示板でその少女に自分が中傷された事を恨み、殺害に及んだ。この少女は『バトルロワイヤル』などを好んで見ていたという。私が虚無感を抱いたのは、バーチャルという単語が『バトルロワイヤル』の世界を指すのではなく、『インターネット』を指していた事だった。
 さて、今私の嫁は隣で『ラグナロク・オンライン』をプレイしている。ROの世界、それは確かにバーチャルな世界だろう。モナックが歩き回り、人々は体力が切れるとミルクをがぶ飲みする。それはまさしく仮想の世界である。ただし、そこにいるプレーヤー達は一部を除いて人間が操っている。そしてそこで行われる会話は果たしてバーチャルなのだろうか?
 少女は、チャットをしていた。チャットは、友人とのコミニュケーションの手段であった。友人とのつながりは、それは現実世界のものだ。この場合、チャットは電話に等しい。電話はバーチャルなのか?それは多分にSF的センスの必要な発想だと思う。
 ではなぜ彼らはチャットをバーチャルといったのか?それは、そこにコンピュータが介在しているからであろう。インターネットが介在する世界は全て彼らにとってバーチャルなのである。だとすれば、彼らの認識がその程度だとすれば……。
 話を変える。さて、『バトル・ロワイヤル』を見た少年少女は皆殺人を犯すのであろうか? 
 答えは、今の所ノーだと言えよう。その論拠は単純だ。日本の法は殺人を禁じている。だから人は人を殺さない。では、法で禁じられていない場合人は人を殺すのだろうか?この場合、殺す人もあれば、殺さない人もいるだろう。では殺さない人はなぜ人を殺さないのか?それは、彼が死にたくないから人を殺さないのである。または彼は人を殺す事に利益を感じないため、人を殺さないのであろう。
 一方、法があった所で人は人を殺す。その場合、殺人者は法によって裁かれる事をなんとも思っていないか、もしくは想像していない場合が多い様に思える。特殊な例では法の上に存在する権利を行使した殺人というものも存在する。それは緊急回避や正当防衛といった部類の事象であるが。


すいません、続きは明日。