昨日の続き、思案。『どうせ試験にでませんし』

 人を殺す、殺さない。
 殺す代わりに殺されてもかまわないという人間に殺す事をやめさせようとするには、その人間を殺すしかなく、ならばその殺人を止めようとする人間は殺人を犯す事に躊躇してはいけないという事になる。と、なるならば、殺す事は否定されるべきではない。となると、殺そうとする人間を殺す理由は生じなくなる。それよりも、殺そうとする者を殺そうという人間はそれを阻止せんとする者に殺されるかも知れないリスクを負う。しかし、殺そうとする者を殺す者はそのリスクを撥ね退けなければならない。そこに必要となるのは何か?それは道徳なり宗教であろう。

 道徳は、今日本で最も軽視されている教科だ。
 『道徳』は戦前『修身』と言われた。修身は旧帝国の根幹をなす儒教思想……家長制度等を叩き込む教科だった。だから、一部の教育者はこれを戦争への道につながるとし、子ども達に教えない。
 また、一部の教師はそれが試験の役に立たないとして軽視する。少なくとも、私が現役だった頃はそうだったと思う。
 しかし、そもそも道徳とは教えられるものではないという意見も有る。道徳とは、得るものであるという筋もある。では、どうやって得るのか?それは親や他の大人の背中を見て、である。
 さて、現代社会においてそんな事は出来るのだろうか?私はここで暗沌とした気分に成らざるを得ない。

 古来、道徳を補完していたものがある。それは宗教である。
 現代、宗教は麻薬だの、非科学的だのと毛嫌いされている。クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、初詣に出かける。それが日本においての宗教である。

 難しい事はいらない。無益な殺生をするな。弱いものを苛めるな。人様に迷惑をかけるな。お天道様に顔向けできるよう自分を律せよ。路肩の花を手折るな。眺めるだけにせよ。その程度でいいんだと思うのだが……。
 生きているものを大事に思え。自分を大事に思え。人間は、それくらいできると思うんですが、違うんでしょうか?


うぅ、やっぱりまとまんない。もうちょっと考えて見ますよ。