人を殺さないと言う事。

 最近の子が人を殺すのは、罰せられるから人を殺してはならないと言う前提で人を殺さないように教育されているからではないかと思うのです。
 誰かに罰せられるから、しないのであれば、当然誰にも見つからなければよいのだという意識が働きます。監視者ってのを外に置くとそうなる。だから人間はこのあたりを、全てを見通す誰かか内心に監視者の役割を与えたのだと思います。
 ただ、それも人間が純粋であればこそで、中途半端に人間がひねくれるとそうも行かなくなります。何しろ、その全てを見通す誰かの存在と言うものを否定しますし、内心というものもタブーを犯すと言う近代的遊戯の為にあえて破られる事もある。
 と、なれば、やっぱりひねくれ者はひねくれ者なりになにか理屈を用意する必要が出てくる。いや、そんなものは理屈無しにそうだってのも確かなんですけれども、最近は理屈無しって事は理不尽。理不尽イコールダメって構図も出来ている様なんで。

 さて、ではその理屈。つまりは時間なのです。
 生物ってのは結局時間の缶詰のようなものだと思うのです。その人というのは、その人が生れ落ちてから今まで、ずっとその人の時間を生きて来た訳です。まだ人工冬眠なんてもんは開発されてませんから、それは現代において間違いないはず。途中死んでた人は少ないでしょう。で、その人の現在の人ってのは、生まれたときの人とは違いその時間を経て変化してきた人な訳で、ここの人ってのを任意の生物にしてもかまいません。クローンができても同じ人/生物が出来ないってのはこの辺。
 で、その人を殺すってのは、結局その人が費やしてきた時間ってのを奪う事な訳で、それを返そうとか、補償しようとした所で自分が持っている時間ってのは結局人間一人分の時間しか持ち合わせていませんから、返しようが無い。保証しようが無い。そりゃ、人間が次官を操れるようになったらば、そんなこともできるかも知れませんが、まぁ、無理でしょうねぇ。
 だからまぁ、責任の負えん様な事はしないほうがマシだろうと思うのです。


 明日は棚卸ー。棚卸だからって言っても定時どおりに出社ですし。
 それでは今日はこの辺で。