ふと思う事。

 『女子供文化評論家』というどこか病院を紹介したくなるような肩書きを持った方がその著書の中で、『素朴な反戦思想』が消滅したと書いていました。それはなぜか?それはきっと戦争被害を教える事をしなくなったからでしょう。
 例えば、今30代の私の同世代は空襲や原爆の被害について子供の頃叩き込まれたはずです。これはつまり、自分たちの先祖が戦争被害者であった事を叩き込まれたのと同じでこの場合の加害者はアメリカだったんじゃないかと思います。勿論、当事の政治勢力、軍部も加害者であると言う教育を受けましたが、実際に爆弾を、罪もない一般市民の上に浴びせるのはアメリカであるわけで、おかげで80年代には嫌米という風潮もあったように思えます。これは現在の某氏の著書『作法としての反米』という文言にも流れていくのでしょう。
 戦争のむごたらしい被害。それを叩き込まれれば、生理的に戦争は嫌だと思うはずです。いや、そうするべきなのです。
 んで、現在。現在の子供たちが叩き込まれているのは日本が中韓を侵攻したと言う事。つまり自分達の先祖は加害者であると言う立場です。この結果、反日と言う風潮が現在蔓延しています。
 この場合、子供たちに残るのは大人は信用出来ないという気持ちだけです。もしくは、自分たちは不幸だと思う。何しろ、犯罪者の子供として生まれたわけです。これはもう、自分たちをその枠から違う物だと思い込んで犯罪者を罵るか、何も言わないようにするかのどちらかしか選択肢がなくなる。尊敬していた、慕ってた人はつまり犯罪者なのです。これはきつい。
 人間は社会性を持った動物です。だから帰属できる場所がないと厳しい。国は信用出来ない、地域も信用出来ない。親も信用出来ない。となれば、信用できる場所を作り出すしかなくなる。もしくは信用できそうな場所に擦り寄るしかなくなる。そして自分を日本から解放するのです。
 それはそれで悪くない話だと思うのです。ただ、その集団がむやみに攻撃的な集団でなければ。 過激な行動はさらに過激な行動を呼び、最終的には収拾が付かなくなる。本人にもそれは気がついていても、もう気づかないフリをして推し進めていくしかなくなる。その先が破滅だとしても、それは破滅ではないと言い張るしかなくなる。おかしいのは世の中であって、自分たちではないと言い張るしかなくなる。信じ込むしかなくなる。
 悲惨な話です。どう考えても悲惨な話です。
 つまりは、そういうことだったのではないかと思うのです。あれもこれもそれも。


 ホントに私、反省したんだろうか?ちょっと不安です。でもまぁ、ここまできたらやるしかないのでしょう。過ちに気づいても、気づかない振りをしながら。こうなったら奈落の底まで。後で見あげればいいだけのことなのですし。