かぐや姫じゃないんだもの

 第13次ともなると、もうニュースサイトでも取り上げてくれなかった。女子高生・宮内美弥は放課後の教室でつまらなそうにモバイルを閉じた。そしてため息を一つつくと窓の外の空を見上げた。
「なーにしてんのよ、美弥っ。20世紀末の昼ドラの主人公でもあるまいし」
「奈美ちゃん、ごめん。マニアックすぎてついてけない」
 美弥に覆いかぶさった奈美、中里奈美は同じクラスでクラブも同じ。美弥にとって親友といっても構わない存在だった。
「さぁさ。早く練習行くよ!今日は今年最後の聖歌練習日なんだから早く行かないとシスターに怒られるよ」
「あ、そだね。うんうん、早く行かなきゃ」
 美弥はあわててモバイルをカバンの中に入れると奈美と一緒に教室を出た。走ってはいけない。走るとその廊下をワックス掛けさせられる。しかもミルクで。だから生徒たちは皆静々と歩く。美弥は、奈美が走っているのを見つかって始めてのミルク掛けを手伝った時、奈美が昔何かの本で読んだ事があると言っていたのを覚えていた。この人凄いなぁ、と素直に美弥が感心していると奈美は『漫画だけどね』と舌を出した。それがなんだかおかしくて、二人で笑ったのを美弥は思い出した。そしてくすくす笑う。
「どしたの、美弥。愛しのお兄ちゃんが帰ってくるのがうれしいの?」
「そんなんじゃないってば」
 美弥は思わず顔を赤らめた。愛しのお兄ちゃん……ご近所の幼馴染、孝之さんは月へ行っている。第13次月面調査隊の一員として。それが今日、帰ってくるはずだったのだ。
「ほーら赤くなった。赤くなった」
「……奈美ちゃん、今度ミルク掛けになっても手伝ってあげないよ」
「えーと、ごめん」
 そしてまた、二人で笑った。『さ、急ご』『うん』二人は走らずスタスタと早足で歩いていった。それを見ていたシスターはミルク掛けを課すべきかどうか、一つため息をついた。まぁ、明日から春休みですし、浮かれているのも仕方ないでしょう。大目に見てあげましょうか。シスターはそんな彼女たちの後姿を微笑を浮かべ見送った。

 第13次月面調査隊の帰還は粛々と行われていた。第1次はさすがに国家挙げてのセレモニーも行われたが13次ともなると科学庁長官代理が顔を出す程度で隊員たちはそのまま防疫センターに収容された。初期の頃は1週間ここに缶詰にされたそうだが今ではそれも3日になった。第20次にでもなればもうそのまま仕事をさせられるんじゃあないかという笑い話すらあった。
「孝之さん、孝之さん」
 宇宙港ゲートを歩く孝之・酒井孝之技術隊員は声の主の姿を探した。
「孝之さん、ここ、ここ!」
 隊員と出迎えの家族たちをさえぎるテープの向こう、人波の中から小さな手だけが飛び出している。孝之はそれを見て思わず噴き出した。
「あれ?なんだ、酒井。いい人か?」
「んー、幼馴染の美弥ちゃんだ」
 孝之は並んで歩く同じ技術隊員の高橋に答えた。美弥には手を振って見せる。見えたかな?孝之は少々心配だったが人波の中の手が振られたことで安堵した。
「あー、あれが美弥ちゃんか。美人かどうだかまったくわからん」
「美人じゃないけど、可愛いよ。妹みたいなもんだ」
「おまえ、それ美弥ちゃんに面と向かっては言うなよ」
「?」
 高橋は眉間を押さえた。えーと、こいつはなんだろう。朴念仁と言やいいのか?
「お前な、ここがどこだかわかってるのか?」
「地球」
「そんなんは知ってる。そうじゃなくてここだ、ここ」
沖ノ鳥島人工島」
「じゃ、お前の里は?」
「神戸だけど、それがどうかしたか?」
 確かに月まで行って帰ってきたんだ、俺らは。神戸からココまでの距離などたかが知れている。坂本は美弥の事が不憫に思えて仕方なかった。美弥ちゃん苦労するね、ならお兄さんが貰ってあげようか?
「えーと、あーと、あの子、いくつだ」
「今年で17になったはずだよ?なんだ、お前美弥ちゃんに気があるのか?あの子はいい子だぞ、それは俺が保障するでも俺はお前と兄弟になるのは嫌だな」
 高橋は孝之を殴ってやろうかと思った。 

 検疫が終わった孝之を待っていたのは美弥だった。
「3日間、暇だったろ?」
「えーと、そうでもなかったよ」
 二人並んで街並みを歩く。この沖ノ鳥島人工島は沖ノ鳥島周辺海域の海底資源を採掘する為に作られた島だったが予算不足も手伝って各方面の研究機関を移設、一大都市になっていた。特に宇宙港が併設されてからは月基地建設の為の研究機関がすべてここに集約され、街は建設当時から比べ遥かに巨大なものとなった。
「ここだよ、馴染みの喫茶店なんだ」
 ドアを開けると金属製のベルがカラコロと鳴った。
「いらっしゃいませー。あ、酒井さん。おかえりなさい」
「沙希さん、ただいま。マスター、ただいま帰りました」
 沙希は孝之の影で微かに俯く美弥を見つけた。
「いらっしゃい、あなた美弥ちゃんね。酒井さんいつもあなたの事はなしてたのよ」
「え、そうなんですか?」
 美弥の顔がぱっと明るくなった。沙希はそんな美弥を見てくすっと笑った。
「さぁさ、お席へどうぞ。酒井さんはコーヒーね?美弥ちゃんはなんにします?」
「えーと……」
 美弥は壁に掛けられたメニューボードを見つけるとそれを上から順番に読んだ。
「美弥はプリン・ア・ラ・モードでいいよな?」
 孝之が笑いながら言う。美弥はちらりと沙希を見ると、
「私もコーヒーください!」
 と、言った。  
「おいおい、大丈夫か?お前苦いの苦手だったろ」
 孝之の言葉に美弥は怒ったような口調で、
「私ももう高校生です、コーヒーぐらいは飲めます!」
 と、答えた。そんなやり取りを見ていた沙希は苦笑いを浮かべながら、
「マスター、ブレンドとカフェオレお願いします」
 と、オーダーを通した。
「美弥ちゃん、うちのコーヒーは美味しいからぜひ試してみてね」
 と笑った。水を出し、カウンターに戻ってきた沙希はマスターに小声で言った。
「あの子、私を恋敵だと思ってますよ」
「まぁ、女の子ってのはそういうもんだろう」
 マスターはコーヒーを落としながら目線も変えずに答えた。

 取り留めのない話。美弥のお隣さんの飼い犬が子供を生んだ話から学校の話、合奏部の話から奈美の趣味が変わっている話までを終えると今度は孝之の月面での話が始まった。行き帰りの船内の話はもちろん月で高橋がふざけてジャンプして危うく月の重力圏を離脱しそうになった話など、美弥はニコニコしながら孝之の話を聞いていた。美弥には、孝之の話がわからない所もあった。だが、目の前でうれしそうに月旅行の話をする孝之を見ているのが嬉しかった。孝之さんもそう思ってくれているといいな、と願いながら。
「はい、美弥ちゃん」
 唐突に美弥の目の前にイチゴのショートケーキが差し出された。
「生クリーム、嫌いじゃなかった?」
「いえいえ、嫌いじゃありません」
「これは私から美弥ちゃんにおごり」
「え?いいんですか??」
 沙希の言葉に美弥はあたふたとしていた。その動きが楽しくて沙希はついつい笑みを浮かべ、美弥にだけ聞こえるように小声で言った。
「なんとなく、鈍感相手を好きな同志って気がしたの。がんばってね」
 美弥はどうしていいのかわからなかったが、顔を真っ赤にしてうなずいた。
「どうした、美弥?え、お前沙希さん好きになったのか?駄目だぞ、沙希さんはマスターのことが好きなんだから」
 マスターが飲みかけていたコーヒーを吹いた。沙希はあわてておしぼりを取りに走っていった。
「なんで、ああなんだろうね」
 沙希からおしぼりを受け取ったマスターは口元を拭きながらつぶやく様に言った。
「えーと、その、マスター?」
 沙希は上目遣いにおずおずと言った。
「私は彼ほど鈍感じゃないつもりですよ。ただ、もうちょっと時間が欲しいだけで」
「そうですか」
 マスターの事情も沙希は知っていた。だからそれ以上何も言うつもりはなかった。ただ、後で孝之には何か言っておかなければならないな、とは思った。

 水平線の向こうに夕日が落ちかけていた。
「えーと、明日帰るんだったっけ?」
「うん、明日の朝一番最初の高速艇……」
 孝之の言葉に、それまできゃらきゃらと笑っていた美弥は黙り込んでしまった。
「えーと、うん。見送るよ」
「え、うん。ありがとう」
 美弥は、もうちょっと他にも言葉があるんじゃない?とは思ったがそれを孝之さんに期待するのも酷だなとも思った。
 孝之は孝之で、さてどうしようかとも思った。喫茶店を出る時、孝之は沙希にちょっとちょっとと呼び出されすごい剣幕で怒られた。『あの子の事をどうするつもり、人の事ばかり見てないで、自分のこともちゃんとしなさい』そういえば、高橋にも検疫の間中同じような事を言われた。『朴念仁という言葉がある。お前ほどの知識を持っている奴がそれぐらいは知っていると思う。だが、知っているのと解っているのは別だ。頭の中では知ってても、実感していなきゃ知識なんてものは役に立たん。お前はそれだ。次こんな事があったら俺は美弥ちゃんを貰う。あの子はお前にゃもったいない』なんていうことを言うんだ、こいつはと正直腹もったったが、確かにそうだったかもしれないな、と思った。そういえば、美弥が『お兄ちゃん』と呼ばなくなったのはいつからだったか。あぁ、僕が高校の時貰ったバレンタインチョコを美弥にあげた時だった。『ひどいじゃない、孝之さん。あれブラックチョコだったよ!』ブラックチョコは苦いから怒ってたのだとばかり思っていた。そうじゃなかったんだな、きっと。孝之は苦笑いを浮かべた。
 しばらくの沈黙、美弥が自分のことを不安げに見上げているのに孝之は気がついた。それが妙に愛しく思えた。世界中で誰よりも可愛いと思えた。さっきまでは妹だと思っていた。だが、今は違う。そんな自分の気持ちに気づいた。えーい、畜生。高橋に聞いてくるんだった。孝之は自分の気持ちにどう反応していいのかわからずにいた。そして、ようやく美弥の頭に手をポンと載せて言った。
「ごめん、今はまだなんともいえない。どうしていいのかもわからない。ただ、美弥が僕の妹じゃない事は確かだ。でも、僕は君の事を誰よりも大事に思ってる。だからもうちょっと待っててね」
 それで正しかったのかどうか。泣き出した美弥をなだめるのに孝之は必死だった。

 
 桜並木の中を、美弥は歩いていた。学校へ向かう坂道。後ろから呼ぶ声に振り返ると、そこには笑顔で手を振る奈美の姿があった。
「おはよ、奈美ちゃん。久しぶり」
「おはよう、美弥。お兄ちゃんとはどうだった?」
 奈美は黙って胸元からペンダントを取り出した。
「これ、月で見つけた石なんだって」
「へぇ……」
 紫水晶の様にも見える透き通った石。奈美はニヤッと笑った。
「で、何か進展あった?」
「『待っててね』って言われた」
 奈美は赤くなって俯いた美弥の首に抱きつきまるで自分のことのように喜んだ。
「良かったじゃないの!美弥!!」
「……ありがとう」
 美弥と奈美は抱きしめあって泣いていた。
 孝之が月に行きたいと思ったのは小学生の頃だったといっていた。夢が叶ったのはそれから20年後の事だった。
 美弥が孝之の事を好きだと思ったのも小学生の頃だった。だから、20年もかかるのかな、と覚悟していた。月ばかり見ていた孝之。私がかぐや姫だったら見てくれたんだろうか?子供の頃美弥はそう思っていた。美弥はまだ高校生だった。あれからまだ4年も経っていなかった。どうなるかはわらないけれど、叶わない夢ではない事だけは確かだった。歩き出してみて、初めて叶った恋。私はかぐや姫じゃないんだもの。待っているだけじゃ駄目なんだ。歩いていこう、と美弥は思った。たとえどんなに遠くったって、行けない所はないんだと信じていた。