昔から思っていた事

 たとえば、私たちは経済大国と呼ばれる国に住んでいるのですが、利益と言うのはどこから出ているんだろう、と言う事。
 原材料を輸入して、製品作って輸出して。代金貰って潤って。そこの原材料の値段と製品の代金の格差が利益。
 どこぞの先生方は教室で、商売をやっている家の子どもをつるし上げ、『お前の親父がやっているのは詐欺だ』と。誰かが作った品物を、店に並べて売っている。その仕入れ代金と売価の差が利益。どこぞのお国は自由経済になった途端、流通が崩壊してしまって小麦畑では小麦が山ほどあるのに都市ではパンがなかったとか。重工業も同じで、やたらエンジンを作る所とシャーシを作る所。その間の連携をどう問ったらいいかわからず在庫があふれて会社が閉まる。中国人はそういうところは抜け目がないですから、何があったって生きていく。
 それはさておき。
 つまり、私らは鉄鉱石から鉄を作り、それをプレスしてくみ上げ、自動車を作る事で手間賃を貰っている。その出来てきた製品が良いものか悪いものかでお客さんが買うか買わないかが決まってくる。そういうものだと。
 時々は、たとえば大統領専用機に一緒に乗ってきて市場開放を強引に推し進め、何台売ると言う事を国と国との約束事にしてしまうような強引な事もありますが、基本的にはお客さんが選ぶ。
 某国からブーツを売りにきた人が嘆いて曰く、日本人の足は小さい。だからブーツが売れない。日本人は足を大きくするべきだ。そんな事は知った事か。なら小さいブーツを作ればいいじゃないかと聞くと、なぜそんな手間をしなきゃならないのか?と逆に尋ねられたとか。たぶん寓話なんでしょうが、良く似たことをしていないか考えないとなぁ、と。
 いや、まさに私はそういうことをしていたんですが。だから無理がかかる。無理がかかればどこかが壊れる。それは人間関係だったり、価格だったり。私の場合は自分自身でしたが。

 皆が皆、平和に暮らすには。
 そんな方法はないのでしょう。
 たとえば、俗に言う未開の民族の人々は自分たちが不幸だとは思っていないはず。そこに西洋『文明』……昨今では文明とは西洋文明を指すそうですが、それは物を知らないと公言しているようなものですが、そんなものを持ち込んだ所で彼らは不幸になるだけではないかと。なぜそんなものを人が持ち込むのか?物を売りつけて稼ぐ為です。自分の幸せの為に人を不幸にする。
 結局は、そうするしかないのか?何か方法はあるんだろうと思っているのですが、どうもそれを人に話すと夢見事だと笑われて。
 江戸の町は高度循環型社会だったとの事。
 これはただ単に皆が皆貧乏だったから。都市というものは地方を持たないと成り立ちません。地方が食料を生産し、都市に供給する。都市は地方に向かって情報を発信する。もしくは一方的に供給させる仕組みを作っておく。
 かごに乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人。この場合、かごに乗る人がいるから経済が回る。かごに乗るべき人がかごに乗らずにテコテコ歩き回ればかご屋も草履を作っていた農民も手銭が入ってこなくなる。つまりはそれがステータスというものだったんでしょうね。
 庄屋さんは大きな屋敷で使用人を抱え、庭を造って庭師に手入れをさせる。庄屋さんはそうする事で雇用を生み出していた。また、人々は稼がなくても畑を耕せば食っていけた。もちろん小作云々の問題はあったんでしょうが、土地があれば飯は食える。それは今でも地方に根強く残っています。土地に対する固執として。

 原点は農業なのでしょう。で、工業。その次に商が来る。
 今は士商工農なのかな?ただ、農は士だと言う説もありますし。土木工事は当然士ですね。
 だとすれば、持てない者は商をやるか工をやるか。



 世界平和よりも、自分の手元の財布が気になるのは健全なんだと自分を納得させつつ、散文を締めます。