千年・前編

 水井は探偵ではなかった。彼の本業はフリーライターだった。ただ、その『実績』はまだ何も無かった。だ
から実際の彼は『フリーター』に過ぎなかった。そもそも、彼はフリーライターという仕事を行うのに何をすれ
ば良いかすら知らなかった。手元にあるのはモバイルパソコンとデジカメ。文章は人よりは書ける程度。大
学の就職活動ではいくつもの新聞社を回ったものの、俗に言う三流私立大学生だった彼は歯牙にもかけて
もらえなかった。そういうことだった。だけれども、水井は夢をあきらめてはいなかった。それはただ単に田
舎に帰りたくなかっただけだったのかも知れない。まだ水井は25になったばかりだった。田舎に引き込むに
はまだ早い、水井はそう思っていた。

「水井さん、ご相談があるんですが……」
 そんな水井を故郷へと呼び戻したのはある日の夜にかかって来た一本の電話だった。それは旧友の妹・
八幡美雪からのものだった。彼女の姉・美咲は水井の高校時代の同級生だった。
 美雪は電話で美咲が代々伝わる村祭の巫女に選出されたのだと言った。彼女達の故郷・福井県出水村
では代々行われてきた祭があった。『九頭流祭』、それは出水村にある黒龍川の源流・黒龍湖に棲むという
龍を鎮める為に行われてきた祭だった。
「で、それはめでたい事じゃないのか?」
 九頭流祭の巫女に選ばれるという事は村では名誉な事だったらしい。そしてそれは名誉以外にも余禄が
あった。村の観光キャンペーンガールとして一年間村の観光課の臨時職員として採用され、それなりの給
料がもらえた。それ以前に巫女コンテストにもそれなりの金額の賞金がついていたはずだった。ただ、そこ
まで思い出して水井は妙な気になった。水井の知る美咲は、そんな物に出るような娘ではなかった。
「美咲が巫女コンテストに出たのか?」
「そんな事、あのお姉ちゃんがするはず無いじゃないですか!!」
 美雪の答えは水井の予測を裏切らなかった。
「ともかく、これ以上の事は電話では。とにかく一度来てください、お願いします!」
 美雪の言葉は、切実に聞こえた。水井は一も二も無く翌朝の新幹線へと飛び込んでいた。
 美咲は、水井が高校の唯一といっていい友達だった。水井は当時からルックスというものには不自由して
いた。勉強もスポーツも何をとっても中途半端で、女子からは露骨に蔑まれていたし男子からもほとんど相
手にされていなかった。そんな環境の中、美咲は自分から水井に声をかけてきた。最初の頃、美咲が自分
のことをどう思っているか水井は知りたくてしょうがなかったが、美咲は誰の目から見ても水井には不釣合
いな娘だった。確かに、校内一の美少女という訳ではなかったが、美咲は毎週のように男子生徒からの告
白を受けていた。が、その総てを断っていたらしく、おかげで水井はいつもそのとばっちりを受けていた。
『何で俺がこんな目に遭わなきゃならんのだ?』初めの頃、水井は美咲にそうこぼした事があった。すると
美咲は鼻の頭をかきながら『ごめん』と一言だけ言った。結局、水井は卒業するまで生傷が耐えなかったが、
それも不思議と嫌ではなかった。美咲は水井と付き合っているんだという校内のうわさを美咲は否定も肯
定もせずにいたし、水井もそれを確かめようとは思わなかった。二人はそういう仲だった。


 新幹線から北陸線越美北線は途中代替バスに乗り、出水村へと辿り着いたのはすでに夕方近くになっ
ていた。雪に埋もれた村。駅では美雪が軽四駆で迎えに来てくれていた。彼女の家・八幡家まではここから
さらに車で一時間ほどかかった。
「すいませんでした、水井さん。突然呼びつけてしまって」
 美雪とは過去何度か会っていた。美咲は自慢の妹なんだといっていた。水井は彼女たち姉妹があまりに
ていないことに気が付いていたが、あまり触れない事にしていた。田舎ではややこしい事が多かったし、何
より美咲の家はこの地域でも名家と呼ばれる家だった。だからなおさら事情などは聞かないほうがいいと
思っていた。
「実は、お姉ちゃん。もらわれて来た子なんです」
 ハンドルを握る美雪はまっすぐ前を見たまま突然そう言った。
「理由はわかりません。でも、お姉ちゃんはどこかからか貰われて来た子なんです。で、今回突然巫女に選
ばれました。お姉ちゃんはその事を何も不思議に思っていなかったようなんです。そうなるのが当然、という
顔でその知らせを聞いていました」
 雪が降っていた。ワイパーがしきりに動いていた。水井は黙って美雪の話を聞いていた。
「巫女コンテストは、今年は中止になりました。なんでも男女共同参画社会がどうこうとか。でも、それだった
らもっと前から中止にするべきだったはずです。それに、観光キャンペーンガールのコンテストはやるそうな
んですよ。変です」
 美雪は村の観光課に勤務していた。この村では、仕事といっても役場か林業ぐらいしかなかった。
「でも、誰も不思議に思わないんです。まるでそれが昔から決まっていた事かの様に。みんな変です」
 確かに変だな、とは思った。対向車はヘッドライトをつけていた。美雪の頬で何かにその光が反射した。
「水井さん。水井さんはライターさんなんですよね?」
 水井はどう返答してよいのかわからなかった。水井は小さくうなずいた。
「お姉ちゃん、何か危険な事に巻き込まれてるような気がしてならないんです。お願いです、お姉ちゃんを助
けてください!」
 こんな自分に何が出来るのだろう、と思った。
「お父さんも、お母さんも、誰も、何も教えてくれないんです。水井さんは今年の黒竜祭を取材に来られたん
だと各所に話は通してあります。村長からの取材協力依頼書もとってあります」
 美咲が自慢するだけの事はあるな、と思った。
「私では、駄目なんです。私は村の人間ですから。お願いします!お姉ちゃんを助けてください!!」
 ここまで言われてしまっては、もう、どうする事も出来なかった。水井はやれるだけのことをやろう、と思っ
た。
「わかった。こんな僕に何ができるかわからないけど、できるだけの事をしよう」
「ありがとうございます!!」
 美雪の声は弾んでいた。九頭流祭は4日後に控えていた。

 八幡家は古い屋敷だった。水井は美雪に紹介されるままに彼女の両親に挨拶した。水井は彼らとは初対
面だった。
「話は美雪から聞いています。九頭流祭はこの村一番の観光イベントです。どうか、大々的にPRしてくださ
い」
 美雪の父・八幡仁左衛門が深々と頭を下げた。八幡家の当主は代々仁左衛門という名前を継承するの
だと聞いていた。彼は18代目だと言っていた。
「何もない所ですが、どうか、ゆっくりしていってください」
 美雪の母・美郷は優しそうな笑顔でそう言った。名家の奥様というともっときつい女性をイメージしていた
のだが、美雪に似たどちらかと言えば可愛らしい女性だった。
 夕食はセイコガニが出た。ほかにも千切り大根の煮つけやきゃらぶき、こんにゃくの煮つけや大根の割り
漬けなどが食卓に並んでいた。
「もっとご馳走をしたいんですが、お恥ずかしい話で……。水井さんはお酒は召し上がられますか?」
 美郷が尋ねた。名家といっても裕福な訳ではなかった。昔はそれなりに裕福な家だったそうだがそれも江
戸時代の頃の話で、18代目・仁左衛門は今森林組合の一理事に過ぎなかったし、美郷も農協のきのこ生
産組合に勤めに出ていると聞いていた。名家というのは名家であるというだけで出費だけを求められる損
な役回りなのだと美咲から聞かされていた。
「なめる程度、です」
 水井は情けなさそうに答えた。それを聞いた仁左衛門は大声で笑った。
「じゃあ、一つお付き合いいただきましょう。みさ……」
 仁左衛門はそういいかけて一瞬表情を険しくした。そしてそれを打ち消すように殊更に大きな笑い声を上
げて言葉を続けた。
「このうちじゃあ私以外酒を飲む者がいないので何時も独り酒で淋しかったんですよ」
 水井は何事も無かったかのように杯を受けながらふとある事を思い出していた。美咲は酒を飲めたよな、
と。高校時代、隠れて付き合わされたのを思い出していた。何で酒なんか飲むんだと尋ねた水井に、美咲
はそうでもしないと息が詰まるからだと答えた。その時は水井はその言葉を聞き流していたが、何かそれが
今は重要な事のように思えてならなかった。
 その後はただの宴会になってしまった。

 目覚めると、水井は浴衣で布団に寝かされていた。外はうっすらと明るい。ここは……記憶の整理をする。
そうだ、美咲の家だ。見回すとどうもここは客間らしく、枕元には昨日着ていた服が綺麗に畳まれて置いて
あった。コートはハンガーにかけられていた。寒い。布団から抜け出した水井は携帯の時刻表示を見た。午
前7時。障子の向こうに人影があった。
「起きてますか?」
 なんとなく声に険があった。美雪だった。
「起きてます」
「じゃあ、入りますよ」
 入ってきた美雪の顔は明らかに不満そうだった。水井は思わず布団の上に正座して頭を下げた。
「申し訳ない」
 すると、美雪は吹き出した。
「いいんですよ。お姉ちゃんに聞いた通りでしたから。でもお父さんと一緒に昨日2升も空けちゃうなんて、
どうかしてます。何がなめる程度、ですか」
 笑顔の中に、険があった。2升も飲んだのか……そりゃ馬鹿だ。水井は自分でもそう思った。
「そういえば、美雪ちゃん?」
「はい?」
 美雪はちゃん付けで呼ばれることに抵抗があったのか、不意を疲れたように返事をした。
「あ、えーと、美雪さんの方がよかったかな……じゃなくて、美咲は酒が飲めたのは知ってる?」
 美雪は一瞬きょとんとして答えた。
「いえ、知りませんでした」
「お父さんは知ってたようだったね?」
 美雪は何か考えるような風に宙を見た。
「そういえば、そんな雰囲気でしたね。昨日も何か言いかけてましたし」
 水井はうなずいた。
「あ、そうでした。朝ごはんの用意が出来てますから、服着替えて茶の間に来てください。……それと、私の
ことはちゃん付けで呼んで下さって結構です。お姉ちゃんにもそう呼ばれてましたし、そう読んでいただいた
方がうれしいです」
 美雪はそういって弾むように部屋を出て行った。この姉妹はわからないな。水井はそう思った。
 
 朝ごはんは美雪が作ったのだという。豆腐とわかめの味噌汁に塩マスの焼き物、目玉焼きが一つ。
「こんな朝ごはんを食べるのは何年ぶりかな」
 何の気なしに水井は呟いていた。仁左衛門も美郷も既に出勤したとの事だった。だから朝食は美雪と二
人向かい合っての食卓だった。美雪が心配そうな顔をする。
「お口に合いませんか?」
 水井は戸惑いを覚えた。大体、女の子と向かい合って食事をするなど小学生以来だ。……いや、たまに
上京してきた美咲と一緒に飲んだ事はあった。あー、でも確かにあの時俺はあいつに異性なんか感じちゃ
いなかったな、と水井は笑ってしまった。
「どうしました?」
 美雪が心配そうに水井の顔を覗き込む。水井はどぎまぎした。
「いや、あのね。女の子と一緒に食事するなんて過去どれ程もなかったし、それ以前に上京してから朝飯な
んて食べた事がなかったんだよ。だから、緊張半分懐かしさ半分」
 水井は素直な気持ちを打ち明けた。
「そうですか?なら良かったです」
 美雪は嬉しそうに笑った。美咲の身に危険が及んでいるのかも知れないというのに俺はいったい何をや
っているのだろう。若干の後ろめたさもあったが、なんとなくこの瞬間が心地よかった。
「そういえば、美雪ちゃん。今日役場は?」
 すると美雪は表情を変えた。多分姉のことを思い出したのだろう。いや、故意に思い出さないようにしてい
たのかも知れない。
「水井さんの取材に同行するということで、一週間直行直帰にしてあります」
 水井はうなずいた。
「とりあえず今日は何処へ行こう。やっぱり九頭流神社へ行くべきだろうか?」
「そうですね。まずは正面を見据えて、裏に回るのはそれからですよね。……たあ、九頭流神社は今の時
期誰もいませんし、祭の事を調べるなら村の資料館に行ったほうがいいかも知れません」
 自分よりよっぽど美雪のほうがしっかりしてるな、と水井は肩を落とした。水井はそこまで深く考えていな
かった。そんな水井の心情を知ってか知らずか美雪は表情を崩して言った。
「さぁ、まずはご飯です。冷めちゃったら美味しくないです。考えるのはその後にしませんか?」
「そうだね」
 水井はみそ汁を一口啜った。なんだ、美雪ちゃんにも苦手はあるんじゃあないか。それは慣れ親しんだイ
ンスタントの味だった。

 水井たちは一日かけて九頭流神社と資料館を回った。
 九頭流神社は黒龍湖の畔の山肌に人工的に作られた窪みに在った。そしてそれは何の変哲もないただ
の祠だった。敷地面積はせいぜい6坪ほどの土地に人が一人入る事ができる祠。しかもそれは近年建て
直された物だという。黒龍湖は実は現在ダムとなっており、元々の九頭流神社はそのダム湖の底に存在す
るとの案内板が掲げられていた。
 資料館にもたいした文献はなかった。過去の九頭流神社はそれなりに立派な神社だったらしい。ただ、今
と同じく神主などはおらず、祭は昔から村に数軒ある名家が守役として祭事を執り行なってきたらしい。
 祭の内容そのものは至極簡単なものだった。巫女が黒龍湖に棲むという黒龍への生贄としてささげられ
る。結果、人々は黒龍川の氾濫から免れる。それは何処にでもある話だった。大昔には実際村から選ばれ
た少女が巫女として黒龍湖へ捧げられた……投げ込まれたという事だったが、それが事実かどうかすら怪
しい。現在に残っている祭の形は巫女役の女性が一晩九頭流神社の祠に入り、守役が夜通しそれを見届
ける、というものだった。派手さも何もない儀式。水井がその祭から受けた印象はそういうものだった。
 ただ、人身御供の話は幼い頃から美雪も聞いていたらしく、今回の事はそれが引っかかっているのだとい
うのだった。
「ほかに何か変わった事はない?」
 資料館からの帰り道、水井の言葉に美雪は答えた。
「実は、電話をしたあの日からお姉ちゃんと連絡が取れなくなってるんです」
 連絡が取れないのは、別に今に始まったことではないらしかった。美咲は鉄砲玉のような性格で、一月ほ
どふらっとどこかへ行ってしまって、ケロッとした顔で何事もなかったかのように帰ってきたそうだ。確かに、
水井にとっても美咲の来訪というのは大抵突然の事で、知らせなどはなかった。そういう奴だと思っていた。
ただ、大抵の場合美雪にだけは何処に行くかこっそり教えていたそうで、今回はそれがなかったのだとい
う。
「何か巫女になるための儀式ってのはあるの?」
「そんな話は聞いたことがありません」
「それじゃあ、明日はそれを調べよう。過去に巫女役になった事のある女性に知り合いは?」
 美雪は宙を見上げた。
「二つ先輩に一人。あんまり得意な人ではないんですが」
「ほかには?」
「心当たりがありません」
「んじゃあ、仕方ないね」
 『そうですね』と美雪は答えたが、少し不安げだった。何がそんなに不安なのだろうか?水井は見当もつ
かなかった。
 その晩は、1升で済んだ。


 水井は夢を見ていた。
 それは何処なのかわからない、ただ、懐かしく感じられる場所だった。
 「待ってたのよ?ずいぶん長い間」
 彼女は微笑んで水井を抱きしめてくれた。水井には、彼女が誰なのかわからなかった。顔がぼやけてよく
見えない。声も確かにどこかで利き覚えがあった。だが、それが誰のものだったかは思い出せずにいた。た
だ、そのぬくもりだけは知っていた、気がした。
 静かだった。彼女の心音だけが聞こえた。寒かった。彼女のぬくもりだけが救いだった。確かに、僕はここ
にいた。遠い昔、僕は確かにここに居たんだ。僕はこの寒さを知っている。僕はこのぬくもりを知っている。
僕はこの静けさを知っている。僕はこのやわらかさを知っている。僕は彼女を知っている。
 でも、彼女が誰なのかそれだけがわからなかった。悲しかった。ただそれだけが悲しかった。

「水井さん、起きてください。水井さん。朝ですよ、水井さん!」
 眼を開けるとそこに美雪の顔があった。美雪は水井に覆いかぶさるようにして彼の体を揺すっていた。水
井が何度か眼を瞬かせる。美雪はあわてて飛び退いた。
「おはようございます、水井さん。朝ですよ」
「うん、あぁ、おはよう」
 水井は上体を起こし浴衣をはだかしたまましばらく呆然としていた。やがて自分の頬が濡れているのに気
付いた。手の甲で拭う。何で俺は泣いていたのだろう。
「大丈夫ですか?水井さん」
「あ、うん。大丈夫」
 美雪が心配そうに水井の顔を覗き込んでいた。水井はその時初めてそこに美雪がいる事に気が付いた。
「あ、え、あ、うわ」
「え?あ、はい?」
 奇妙な声を上げる二人。水井は浴衣の胸元を直した。そういえば昨日も着替えた覚えがなかった。誰が
着替えさせてくれているのだろうか?目の前には美雪がいた。
「えーと、毎晩、迷惑かけてる?」
「そんな、迷惑だなんて思ったことないですよぉ」
 疑問が確信に変わる瞬間だった。水井は布団の上に正座して深々と土下座をした。
「まったく持って、申し訳ないです」
「そんな、私が勝手にやってることですし、それに好きでやってることですか……」
 美雪はそういいかけて顔を真っ赤にして出て行った。
「あ、ご飯出来てますからー」
 一体何が起きているのだろう?水井にはまったく事態を理解する事が出来なかった。

 服に着替え、茶の間に向かう。今朝のメニューはアジの開きに卵焼き、味噌汁だった。卵焼きの形はなん
となくいびつだった。
「すいません、へたくそで」
 ご飯を盛った茶碗を差し出しながら美雪は照れくさそうに笑った。美咲は俺のことを彼女になんと言って
いたのだろうか?何か、美雪の中で自分以外の何かが形作られているような奇妙な気持ちがした。美雪は
明らかに自分に好意を持っている。水井はそう思い始めていたが、ただ、それがどういったものかはまった
く見当がつかなかった。何しろ、経験がない。女性に好意を持たれた経験がない。水井はそれを確信を持
って宣言できる自分にとめどない淋しさを感じていた。
「たまごやき、お嫌いでしたか?」
「いや、えーと。そんなんじゃないんだ」
 きっと美雪はいい子なんだろうな、と思った。誰にでも優しいいい子。転校生に優しく接してくれる学級委
員長みたいなもんだ。そう、思いかけて何か嫌な事を思い出したような気がした。たしかあれは小学校の頃
のバレンタインデー……学級委員長はその日水井にチョコレートをくれた。水井は有頂天になってそれを自
慢したが、帰りの会の席上、反省会できっぱりとそれが委員長としての職責からの行為、つまりは誰からも
チョコをもらえない水井を不憫に思った彼女がボランティア精神を発揮しただけに過ぎないことを宣言され、
奈落のそこに叩き落された事を思い出した。ま、今考えてみればそれはそれでいい思い出とすべきなんだ
ろうけれども、当時の水井はそれから1週間学校へ行くのを拒んだ。最後には担任に引きずられて学校に
行ったのだが、その時のクラスの顔といったら……。
「ごめんなさい!明日からはインスタントのお味噌汁にしますから!!」
 美雪は泣きそうになっていた。その時初めて水井は自分が味噌汁を啜っていた事に気が付いた。エノキ
タケの味噌汁の味はそれほどひどい物ではなかった。ただ、明らかに化学調味料が多いという事を除いて
は。
「えーと、うん。いや、お味噌汁は美味しいよ」
「でも、化学調味料が……」
「ちょっと多いね」
「やっぱり明日はインスタントに!!」
 美雪はもはや泣き出していた。えーと、この娘いくつだっけか?あーと、美咲から5歳年下だから21か。
えーと。水井はしばらく悩んだ挙句に正直な気持ちを打ち明けた。今まで女の子にやさしく接してもらった経
験がないこと。美雪ちゃんはかわいいと思うこと。そんなかわいい子にやさしく接してもらったらどうすれば
いいか見当がつかないこと。そもそも、自分がそんな資格のある人間ではない事、等々。最後には水井自
身が泣きたくなっていた。変わって、美雪は泣きやんでいた。それどころか、照れていた。
「え。私、かわいいですか?」
「美雪ちゃん、人の話し聞いてた?」
 水井はやはり泣いてしまおうかと思った。

 なんとか朝食を済ませ、二人は元・巫女経験者である早瀬多佳子の元を尋ねた。彼女は現在泉村に隣
接する大野市内の酒造メーカーで働いているとのことだった。美雪の運転する車に揺られる事1時間半、よ
うやく目的地に着いた。途中、水井は『運転変わった方が良いかな?』と美雪に聞いたが、逆に美雪に『雪
道は走った事がありますか?』と尋ねられて黙りこくるしかなくなってしまった。『私、車の運転好きなんです
よ。それに大事な方ですし』と美雪に気を使わせてしまった。水井はなんとなくしくじった様な気分で窓の外
を眺めていて、その『大事な方』という一点を聞き漏らしていた。
 杉玉が軒につるされた店構え。暖簾をくぐるといらっしゃいませーという声と同時に一人の女性が飛び出
してきた。
「美雪ちゃんじゃないのー。どうしたの、ねえ、どうしたの?」
 美雪はその女性に抱きつかれながら苦笑いを浮かべていた。
「ご無沙汰してます、多佳子先輩。今日は仕事でお伺いしました」
 美雪がそういうと、多佳子はやや拗ねた様な顔で美雪の顔を見た。美雪は笑顔とも、困り顔とも取れる表
情で多佳子と対峙していた。
「なーんだ、つまんない。てっきり遊びに来てくれたんだと思ったのに」
 そして、多佳子は水井の存在に気が付くと明らかに怪訝そうな顔で美雪に尋ねた。
「こいつは?」
「えーと、こちらは東京からいらした水井さんです」
 美雪は手のひらをちょこんとまげて水井を多佳子に紹介した。
「水井と申します。今日はよろしくお願いいたします」
「どういったご用件ですか?」
 多佳子の視線は刺すように痛かった。そうそう、これが本来俺に向けられるべき視線だよ、と、水井は笑
った。

「え?巫女になるのに何か特別な修行をしたかですって?」
 美雪の言葉に多佳子は声を上げて笑った。美雪が少し起こった風な顔を作って見せると多佳子は一瞬怯
えたように、そして美雪の機嫌をなだめるように言った。
「ごめんね、あんまり変な事を聞かれた気分だったから。あれはね、美雪ちゃん。その日の朝巫女さんの衣
装をまとって、あとはあの祠の中で眠っているだけなのよ。さすがに寒くてしょうがなかったけど、何も修行
じみた事なんてしなかったわ」
「そうですか……」
 美雪は残念そうに呟いた。
「そういえば、美雪ちゃん。今年の巫女役は美咲さんなんでしょ?」
「えぇ、そうなんですけど……どっか行っちゃったんですよ」
「あの人らしいわねぇ」
 多佳子はそういって笑った。
「中学時代も、時々ふっといなくなって、そして気が付くとふっと戻ってきてたのよ。そういえば、確か……美
咲さんは八幡家の養女、って聞いてたけど」
「はい、そうです」
 美雪は少し怒った風だった。
「お里に帰っているのかも知れないよ?」
「え?多佳子さんお姉ちゃんの元の家って知ってるんですか?」
「えーとね、確かね、池田の方よ。伊井ってお家だったかな?」
「伊井家は絶えてるよ、もう」
 奥の方から声がした。暖簾をくぐって出てきたのは初老の男だった。
「あ、会長!」
 多佳子が立ち上がって会釈をした。美雪と水井もそれに習う。
「えーと、お二人は『九頭流祭』に興味があっておいでになったんでしたかな?」
 水井が答える。
「はい、私、東京から参りましたフリーライターの水井と申します」
「お生まれは福井の方ですな?」
 会長がチラリと水井を見る。
「訛り、ですか?」
「いや、水井という苗字です。水井という苗字はそんなに何処にでもある苗字じゃあありませんからね。店
先ではなんですから、どうかこちらにおあがりになってください。早瀬さん、お二人を応接間にお通ししなさ
い」
「はい、会長!」
 水井は多佳子がなぜそれほど緊張するのだろうと思った。

「会長はね、滅多な事じゃ人にお会いにならないのよ。ご趣味は郷土史らしいんだけれども、正直何処まで
本当なのかも知らないの。なにしろ、お会いしたの、私2度目だし」
 美雪は、『へぇー』と小さく声を上げた。なるほどねぇ、と水井は思った。
 水井たちを応接間に案内した多佳子が下がってゆく。8畳の和室に机、座布団が4枚。床の間には枯山
水の掛け軸がかけられ誰が活けたのか花もあった。二人は下座に正座で会長が出てくるのを待った。
「あの多佳子先輩をあそこまで緊張させるんですから、すごいですよ」
「そうだね」
 小声の美雪に水井もやはり小声で答えた。
「やぁ、お待たせしました。どうぞお楽になさってください」
 何か古い文書を抱えてやってきた会長に進められたが二人は足を崩さなかった。会長はふっと笑ったが
楽しそうにその文書を机の上に広げた。
「これは、平安末期に『九頭流祭』を記録した文書の写しです。本物は県立図書館にあるはずです」
 水井たちにはそこに何が書かれているのか、まったく理解が出来なかった。ただ、ところどころに絵が描
かれており、それだけは何か理解できた。やはり『九頭流祭』は少女を黒龍湖に捧げる祭だったらしい。
「この文書の要旨はこうです」
 会長はそういうと老眼鏡をかけ、一冊の大学ノートを開いた。
「その年、黒龍川は大氾濫を起こし下流の村々の多くを流し去ってしまった。その死者の数は夥しく、三国
には上流から流されてきた死体で一杯になってしまった。これはおそらくは黒龍様のお怒りに違いなく、そ
れまで長らく絶えていた人身御供を復活させ、お怒りを沈めなければまた来年同じことが起きるに違いない。
また、長い不義に対するお怒りを静めるにはそれ相応の女性をとの声に流域の生き残った各村々より美
女・才女を集め、誰がいいのかと悩んだものの、結局は人智の及ぶ所ではないとされ某所高僧に天啓を賜
り、ある者を御供として湖に沈めた所、翌年以降氾濫はなかった、と書かれております」
 水井たちはまるで何か御伽噺を聞いている気分だった。
「その、天啓とは?」
 美雪が尋ねる。
「残念ながら、記録が欠落しております」
 と、文書の写しの一部分を指差した、そこは紙魚に喰われたか、大きな穴が開いていた。
「ではその某所高僧というのは?」
 今度は水井が尋ねた。
「そこは、塗りつぶされておりまして。多分、永平寺か平泉寺であろうとは思われるんですが、私もなんとも
申し上げられません。ただ……」
「ただ?」
 水井が身を乗り出した。
「平泉寺は何かと伝説のある寺です……最も、現在では神社ですが」
東尋坊、ですか?」
「えぇ」
 水井の答えに会長は嬉しそうに笑った。
東尋坊?」
 美雪の声に水井は答えた。
「三国にある東尋坊は昔、平泉寺にいた東尋坊という坊さんが酒に酔ったところを突き落とされて、それか
らあの名前になったらしい」
「へぇー」
「最も、その話が真実を伝えてるかどうかは、わかりませんがね。なんにせよ、あれは三角関係のもつれだ
った訳ですから」 
 会長の補足に、水井は驚きの声を上げた。
「そうだったんですか」
「えぇ。ひょっとしたら東尋坊は悪人ではなかったかもしれませんしね」
「歴史は作られる、ですか?」
「都合よく、生き残ったものに、です」
 会長は嬉しそうに笑った。二人は足がしびれて動けなくなっていた。

 後部座席では、お土産にと持たされた酒瓶がカチャカチャと音を立てていた。
「今日はあんまり飲んじゃ駄目ですよ?」
「わかってます」
 美雪は笑っていた。風呂に入り、仁左衛門に呼ばれた水井は結局その日も深酒をしていた。