散らかる思考
毎年、福井大仏の節分には行っておりました。別に豆がほしい訳ではなく、あそこの境内で出される蕎麦が目当てで。最も、季節感とか空気とか、そういうものを感じたくて通っていたのですが、結局今年は行きませんでした。
ずっとクラナドをやっておりました。
行こうと思えばいけたのですし、行くべきでもあったんでしょうが、痛めた左足もまた疼いてきましたし、そんな状態で人ごみにまぎれるのは嫌だな、と。埋め合わせじゃないけれども、土曜日には駅前に行って佐佳枝廼社に行ってこようかと。それまでには足も治る事でしょう。
朝、嫁さんの実家からの電話で起こされて。何事かと思いつつ応対する嫁の声をじっと。特にややこしい事でもなかったのでそのままTVをつけてしばらく。若い女性へのアンケートで自分たちの世代が損をしていると思ったことベスト3に『年金が貰えない事』というのが入っていて目が覚めました。言われているほど馬鹿じゃないし、誰も国など信じちゃいないということでしょうか?
この間からある事をふと。旧国鉄の赤字はJR株の売却や土地などの売却で埋め合わせたんだよなぁ、と。では、郵政公社の株式は何に使うのだろう、と。それはそれで楽しみでならない、のですが。もし私の思うような使われ方がするのであれば、日本はまだまだ大丈夫だろう、と淡い期待を持ってしまいます。
朝ごはん、嫁にとっては夕ご飯を済ませて。薬を飲んだら少し眠くなってそのまま突っ伏し気が付いたら14時。もうどうにでもなれ、と思いながらPC起動。
で、クラナドをやっておりました。
結局は、空気。Keyだと大気と表現すべきなのか?私は別に鍵っ子じゃないからいいや。
空気を読む。空気に触れる。雪の日の朝のあの凍りついたような空気。晴海会場で迎えたあの高揚感にあふれた空気。秋葉さんの作品から漂う空気。京都という町の空気。東京という街の空気。福井というまちの空気。料理屋の厨房の空気、料理屋の客室の空気。好きな空気、嫌いな空気。それをすっただけで胸が一杯になったり、吐き気をもようしたり。
間、という言葉も好きですね。間を読む、間を取る。間が読めないとつまらない。間が抜けていたり。
今の私はあらゆる意味で間合いがわからず、空気も読めない状況ですが……もうちょっと辛抱してみましょう。積極的に休めといわれましたが、どう休んだものか。こういうときこそ湯治場にでも言ってみたいような気がします。せめて『つげ義春』でも読みましょうか?
父親がふと漏らした言葉。昔なら、温泉旅館の下足番でも食っていけた。歳を取ったら独り、そうやって死んでいくつもりだった。でも、今は下足番なんかいやしない。みな、こぞって無駄を省こうとしている。合理化というものは人を幸せにするか?と。
配達員だった頃、いつも国道は街路樹の剪定作業で渋滞していました。ハンドルを握り、進まない車列に苛立ちながら街路樹を苦々しく眺めたものです。右折レーンで信号待ちをしていて、中央分離帯の木々の中に捨てられた空き缶の山、弁当ガラ。いっそ何もない方がいいんじゃないかと思いました。
でも、桜の頃、さくら通りを通るのは胸が弾む瞬間でした。さくらの花びらが舞い散る中、軽ワゴンを走らせるのは楽しくもありました。
田んぼの中の県道、冬。横風に煽られながら凍結路面を走ります。街路樹は、そんな横風を和らげてくれました。
池波正太郎は、エッセイの中で『今は金持ちも貧乏人も同じ生活をしている』と嘆いていました。見上げる物がなくて、どうして私たちはその坂を上っていけばよいのでしょう。今、私たちは多分その頂上に立っています。ただ、そこにいるのは多くの先達のおかげです。それは知ってはいます。でも、知っているだけなのです。時々思い出すCM、目薬のCMですがお父さんはその工場まで足を運んで見てきます。子どもはサイトでそれを知ります。果たして、子どもはその空気を知りえたのでしょうか?
感謝していますとは口ではいえます。ただ、それが心の中から出た言葉なのか、尋ねられると困ります。
多くの企業は、有形無形で身を粉にし会社のために尽くしてきた社員をバサリと切り捨てました。子どもたちはそれを見ています。
フリーターが問題になっています。企業もそれは気にしていますが実際採用するのはアルバイトやパートです。
流通は、お客様に奉仕しますといいながらメーカーに値引きを要求します。
問屋がなくなれば、メーカーから直接仕入れの出来ない町の商店はなくなります。
問屋は無駄だと良く言われます。なら、何故あるのでしょう?
商社は在庫を持ちませんが、問屋は在庫を持ちます。
山間地農業は無駄だという声があります。そんなところに助成して田んぼを作らせるぐらいなら外国から安い米を買えといいます。農水省をかばう気などはさらさらありません。もっと通産省が強ければ気持ちも変えますが。ただ、山の水田がなくなったらどうなるでしょう?もっとダムをつくらにゃあらなくなるでしょうね。
広葉樹は金にならないと伐採してスギを植えたそうですが、輸入木材に押されて採算が合わないと放置されてしまっているそうです。結果は土石流や花粉症の多発化。
無駄は必要な気がします。無駄に見えても、それは無駄ではないのかも知れないのです。
今日はこのくらいで。
豆ぐらい、まくべきだったんだろうな、今日は。