生物というもの

 ドーキンズが『生物は遺伝子の乗り物に過ぎない』という説は進化論というよりは生物というものの見方に対して大きな衝撃を与えました。確かに、遺伝子の発見……ワトソンとクリックのDNAの発見、そしてセントラル・ドグマの構築といった衝撃よりはそれは局所的なものだったとは思います。DNAは知っていてもミームを知る人は少ないでしょうから。

 で。DNAとはつまり、その個体が今この世界に存在するまでの過程を記録したものと考える事が出来るのだと思うのです。例えば、私のDNAには父母から引き継いだもの、そのまた祖父母から引き継いだもの……果ては地球上に初めて誕生した*1生物の記録も残っている訳ですよね。と言う事はつまりはDNA(生命)は時間の缶詰であるとも言えるのでしょう。

 話は少し外れるのですが、どこで見たのか物質の循環の図。水は海より蒸発し、雲となって山に雨として降り注ぎます。一方、無機物は山肌より雨に洗われ、地中深くより植物に吸い上げられ、落ちた葉が土となり、それが雨水といっしょに川へ流れ込み海へと流れ込みます。
 で、海に流れ込んだミネラル分は山へと戻っていくのですが、その方法ってなんだと思います?その図では、鮭の遡上で帰っていくのだとしてありました。正直、しばらく唖然としました。確かにそれはそうだ、と。山より出でて海に流れたミネラル分は鮭やうなぎといった魚達によって山奥深く帰っていく。何でそんなことに気が付いたんだろう、この図を描いた人、と。昔、あろひろしさんが『奥様はマッドサイエンティスト』でしたか、そういう連載物の中で海中の金を体内に取り込んで蓄積する『金魚』というネタをやられたことがありましたが、なるほどなぁ、と。

 閑話休題。私は生物とはすなわちその存在をあらゆる手段を用いて残していくものだと思っています。多様化というのもその一つの手段で、その機構が進化というもの。よく、人間は万物の長であると言う人もいますが、それは『知能』という限定された機能についてのみで、こうして見てみるととても生物の長たる資格などはなさそうに思えてなりません。確かに人間は空を飛び、地上を走り、海を行く事が出来ます。道具を使って。ただ、使い方が拙いような気もするのです。
 私は旅客機よりも戦闘機、豪華客船よりも護衛艦、F−1よりも戦車の方に憧れます。ですが、戦争そのものには憧れはしません。もちろん、誰かを護る為に自分の命を投げ出すのは苦とは思いません。むしろ、そうありたいと望みます。ですが、国の名誉や誰か知らんお偉さんの為に命を投げ出すつもりはありません。それは馬鹿げた事だと思います。ただ、だからと言って自分の信念で死んでいった人々までコケにしたいとも思いませんし、それを共用してなお恥じる事無く生き延び、死んでいった人たちや利用された人たちに責任を押し付けるのを潔しとも思いません。
 また話が横道に逸れました。まぁ、詰まる話、知能の発達というのも『生物』という時間を紡ぐものがこの世に残る為の一つの手法だったに過ぎないのだろうと思うのです。ですから、私は自分が犬猫より優れているとも思いませんし、決死の覚悟で子孫を残す為に人の血を吸おうと飛び掛ってくる蚊の母性愛*2に尊敬の念すら覚えます。また、ウイルスの様に細胞器官を捨て去って精製されてしまうほどの存在になる覚悟などありませんし、プラナリアの様に切られても切られても再生できる訳でもありません。ましてや杉の木のように数千年の時を生きる事も出来ません。

 生物とは、つまりは遺伝情報(この場合DNAとRNA)の総量が増える方向で進化するように作られたシステムのような気がします。

 悲しいですが、そこに人の想いなどが残る必要は無いのだと思います。
 もちろん、ミームが残っていけばいいな、とも思うのですが。

 願わくば、人類もDNAのサム・ゲームの一員であり続けますように。
 いずれは他の生物達と共に火星へ、恒星へと旅立っていくまでになれます様に。

 それが、どれ程儚い願いかは知っていますが。

*1:飛来したでもいいけどね

*2:彼女達にそんな感情があるか知りませんが