3月の雪と言うのは、別に珍しくは無いのだけれどもここまで降られるのもすごいな、と思うのです。

 今日、外出しようと家のドアを開けるとそこは雪が舞う世界で。それは見事でした。雪国以外の人には説明がし辛いあの光景。……春の嵐に舞う桜の花びらとでも言っておけばいいのでしょうか?あれの雪バージョン。

 見ている分には神秘的なのですが、活動する分にはちと困る状態。1時間放置で車が雪だるま。これは3月じゃない。

 旧暦で言えば、まだ2月ですから、考えてみればそれはそれで正しいのかも知れません。


 それにしても、桜が恋しいです。春の陽気が恋しいのか、桜の花が恋しいのかは微妙なのですが。
 今朝方、書庫の整理をしていて見つけた『大人の週末』第3号で3年前ですね。駅弁と鯨の特集だったその巻頭、見開き一杯の桜の写真。解説を読むと秋田県の山中の山桜だとの事なのですが、その圧倒的な姿。モスグリーンの山並みをバックに山桜の大樹が濃いピンクの花を満開にさせていました。そこにあるのは『狂気』。

 桜はやはり狂気を孕んだ植物だと思うのです。春の訪れに他の木々は葉を茂らせるのに桜だけは満開の花をつける。確かに梅や桃も葉より先に花をつける様な気がしますが、樹木全体が花になってしまうほどはつけない。だからこそ、そこに狂気があるのです。実際は、その一個体がつける花の数としてはひまわりやタンポポの方がよほどのものだとは思うのですが、やはりインパクトは桜の方が強いな、と。
 もちろん、そこには付随する何かがあるのは自分でも解ってはいます。『散る桜 残る桜も 散る桜』は好きな句です。『同期の桜』は何故か潜水学校と変えて唄っていました。うちの先祖には戦争に行って帰ってきた人はいなかったようです。正確には、出征し、戦傷を受け後送され、その後快癒した後軍属として火薬庫に勤務し、戦後火薬の毒で死んでしまった人がいました。それは母方の祖父でお陰で母の生い立ちは複雑なものになったようです。
 尊敬する上長のお父様は鯖江の連隊に属し、話をお聞きする分には分隊士までになった方だったそうですが、戦争については殆ど何も語られなかったそうです。ただ、戦争を憎んではおられたと。上長からはそうお聞きしました。
 学生時代、懇意にしていただいた一般教養の教授が退職される間際呑みに連れて行ってくださって、そこで見せていただいた一通のはがき。それは先生の同期生が特攻隊に配属され、出撃前に書かれたものだった様で。もちろん『特攻』などと言う単語は何も使われてはいなかったのですが、文学を愛しておられたその方は文系学徒を根こそぎ戦場に駆り立て、すり潰した後の日本を憂いておられました。ご自身の命については、何も書いてはおられませんでした。

 狂気。狂気の中で冷静であるのもまた狂気。ある人間の凶行を狂気の沙汰と評しておきながら、自らも狂気を孕んでいる事に気付かない振りでいるのもやはりどこか狂っていると言わざるを得ないな、と。

 今の日本には狂気があふれているように思います。その中で起きる狂気。それを殊更糾弾する事で、彼が所属している集団が狂気の集団であると言う事で自分たちは正気だと思いたがる。実は、自分たちも狂気の中にいるのにもかかわらず。ありふれてしまうと、それは日常になってしまうのでしょう。少なくとも人間は生物学的にそう出来ています。だからと言って、それをそのまま受け入れてしまうと言うのも危険だよな、と。

 桜は散ります。去り際を知っています。
 どうなんだろう?と。それを思うと不安になります。ならばその中に身をおいてしまった方が楽なのですが、少なくともそういう風には育ててもらえませんでしたし。
 怨むべきか喜ぶべきか。悩む所でもあります。