(mixiより改変転載) 朝出かけに見たワイドショーに思う 

 出かけにパンを食べていると、テレビで中東の反政府デモの話をやっていた。
 コメンテータたちは口々に『西欧文明の行き詰まり』を指摘していたのだけれども、なんだか妙な気分になった。


 ハテ? 独裁というのは西欧文明なんだろうか?? と。
 いや、それが資本主義体制下における資源国が採りやすい制度である事は理解できる。そもそもその根源が西欧の植民地政策にあったのだ、とか、石油などの資源が世界市場において有力な商品足りえるからそれを独占しようとする人間が出て来るのだという理屈を出されたら確かにそうなのかも知れない。


 んなら、いったいどうしろと? と言う気分にはなる。

 歴史に問題があったのだと言うことになれば、正直解法は思いつかない。1920年代にタイムスリップしてイギリスの民主化運動を潰すしかないという事になる。それ以前に発生する大航海時代産業革命を潰すべきかも知れないけれども、それはどう考えても夢物語だ。

 石油やその他資源依存を減ずるか?
 江戸時代、江戸は世界でも有数の都市でありながら同時に完全リサイクル社会だったと言う評をよく聞く。これは江戸と言う街がほぼ生産(一次・二次ね)を行わなかった街であり、そこで生活する人々の必需品……食糧や燃料、その他諸々を外部からの供給に頼っていたという現実がある。だからこそそこに住まう人々はそれらを商業や加工によって得た金銭で購入しなければならなかった訳で、ならばこそその出費を少しでも減らす・リカバーする為にリサイクルを行わなければならなかったと言う事実が存在する。それ以前に江戸期当時、市場経済下にあった人口と言うのはどの程度だろうか? 逆に言えば、自給自足で生活していた人たちはどれだけいたのだろう?
 現在、個人が自給自足のみを行い現在の生活レベルを維持する事はほぼ不可能だろう。
 もちろん自給型農業と言うものが存在する事は理解しているが、それを行う為には我が国の国土は狭すぎる。また、山や河原、湿地などの管理権が自治体や国に接収されている現在、利用できる土地そのものが過去よりも少ないともいえよう。また、そういう生活を送るにはムラ社会に立ち戻る必要性もある訳なのだが、そんな事は実現可能だろうか?


 時々思うのだけれども、共産主義はそもそも社会が農業・自給自足中心の社会から都市型工業社会に移行し、その中で生活に困窮する無産階級が発生する事から立ち上がるものと定義されていたと思う。ならば、現在の中国など、そもそも工業化されていなかった地域がその政体を採用する事自体が間違いなのではないか? 西欧世界などは産業革命以降、ケアンズ的な『福祉社会』になって行った訳だが、これは民主的政体が採り得た共産主義ではなかったのか? 80年代頃まで存在していたと言う日本型経営は儒教的倫理に経営者が沿った仁治的経営形態であり、だからこそ政治は大企業/都市部/工業が得た利益を中小零細企業/農村部/農業へ再配分を行う事に専念できたのではないか? ハイエクなどが提唱した『新古典主義経済』は国家による再配分、つまり福祉社会主義を否定し、過大・非効率となった国有的企業体や福祉そのものを次々と解体し、それらを新たに民営・個人の努力に委ねた訳だが、どうも我が国の場合はそういった辺り、詰まるところの倫理に欠け、『お客様第一主義』の掛け声の下、『お客様』は暴君的に振る舞ってその企業……各種サービスを提供する『店員』を搾取するだけの存在に堕したようにも思える。『お客様は神様です』という有名な言葉はあくまでサービスを提供する側の基本的精神であり、客がそれを要求する為の言葉ではないと考える。『お互い様』という概念のは『奪ったもの・やったもの勝ち』という信念に上書きされ殺伐とした社会のみが今ここにあるように思える。先日話題になった武富士創業家相続税返還などは、新古典主義経済論者≒リバタリアンなども問題として指摘する『フリーライド』という状況ではあるが、そもそも高利ではあるが安易に金を貸してくれる企業から金を借りた『消費者』の愚行が引き起こした対価は誰が支払うべきなのだろうか?


 閑話休題
 
 なんとなく妙な気分になるのは、少なくともそのコメンテータ達は現在の日本社会において間違いなく『勝者』側に位置する人間であろうという事だ。もちろんその戦術が社会の矛盾を次々指摘することによって、現存する敗者がそれに賛同させ、苦い酒を飲んだりその周囲に肉体的・精神的暴行を加える権利を得たのだと錯覚させる根拠を提供する事によって収入を得るものであったとしても、だ。
 
 つくづく思うのだけれども、彼らは結局どうしたいのだろう?
 共産主義なり社会主義なりの国家を熱望しているのだろうか?? いや、そんなはずはないよね。そんな事したら彼らは商売が出来なくなるのだもの。
 なんにせよ、他人の不幸を飯の種に出来るってのはまぁ、うらやましくもあるわな、と言う気分になったのだけれども、なりたいとは思わんなぁ、と思った次第でした。