(mixi自己日記より転載)ネパール人店長殺害事件について

 ある方の日記を見ていて衝動的に思ったことを書き連ねてみる。
 いや、常々思っていることでもあるのだけれども。


 1.集団狂気化
 と、いうのは、悪ふざけのつもりというか、この場合は集団である事から発生した凶行……連合赤軍連続リンチ殺人事件のように、ある集団内においてより過激な行動をとった方が偉いという価値観が成立してしまった場合、誰もがその行為から抜け出す事が出来なくなる。たとえ個がそれはやりすぎだと思っていたとしても、集団内の相互監視がその歯止めをあっさり打ち砕く。もしここでやめてしまえばその非難が自分に向くのではないか? で、あるならば自分はこの集団の中においての地位を失ってしまうのではないか? という恐れも発生する。そして凶行はエスカレートする訳である。

 過激であれば過激であるほどその行為は集団内において尊いとされる風潮は別にこういったところだけで発生するわけではなく、政府批判などを行う集団内においても度々見られる。その場合、その行動は『絶対正義』の後ろ盾を得てさらに過激化する。当然そこには歯止めなど発生しないし、で、あるならばより非道であるとその集団内において認識された人間・組織を叩くに遠慮はなくなる。もしそこで攻撃対象の構成員から自殺者が出たとしても、それは『当たり前』の事であり、『快挙』として認識される事すらある。当然相互監視の目から転向したりその行動に疑問を持った人間への攻撃も頻発する。

 日本軍が云々かんぬんだの抜かすやからも結局はその理屈で動いているというのは間が抜けているというべきか、なんというか本当に途方にくれてしまう。『ミイラ取りのミイラ』というのはそこいらじゅうに転がっているものだと思う。


 2.お手本に習う
 もし、刑事ドラマやサスペンスがなければ犯人は東京に逃げなかったのではなかろうか?
 当然ながらフィクションをフィクションとして楽しむ事が出来ない人間はフィクションを見る資格はないのだけれども、案外そういう人間は多いのかもしれない。

 人間の行動というものは大抵お手本というものがある。ある行為を行うにおいてその行為がまっさらなオリジナルであるという事は全く持ってまれで、何かしら予備知識というか、何かを真似てしまっている。

 本件においても多分そういうものなのだろう。犯罪を犯したら逃げなければならない。できることなら可能な限り遠くへ。木の葉を隠すならば森の中。他者への関心の薄い場所へ逃げようとするのはおおよそそういうドラマから得られた知識ではなかろうか、と思う。

 この辺りを深く考えるととある問題において我が敵対者を利しかねないのだけれども、そのあたりは一応冒頭の論でクリアしていると思いたい。


 3.素朴な宗教観の喪失による問題

 素朴という言葉は諸刃の剣ではある。なぜならばそれは大抵の場合理論背景を持たない。『私が思っているのだからそれでいいのだ』というのが素朴の正体であり、それは個人の価値観におおむね立脚した判断体系だと思う。

 まぁ、それはそれとおいといて。

 なんというか、人を殺すな傷めるなというのはある年齢になったら当然会得しておかなければならない倫理観の一つであろう。
 学生時代、同期の友人が『殺人が違法なのは為政者の保身だ』と言っていたが、集団を構成する際、殺人を禁忌としておかなければそれは立ち行かない。殺さないというのは、それは相手から自分が不意に殺されないという保障と同等であり、だからこそその禁を破ったものは罰せられるという仕組みが出来上がっている。他者を不意に殺しても構わない世界は個々が自衛を旨とする為組織として成り立たない。これは人をだまさないという禁にも通ずる。だましても構わないという世界であれば取引というものが成り立たない。これは現状を見ればわかりやすい。偽っても構わないのだという心理の下、自己の利益だけを追求する社会は停滞し発展しない。某マンガ家さんがその著作の中で『裏切り者だらけの世界では分捕るべき富の蓄積が生じない』と言っているのだが、これはまさにそうだと思う。このあたりはゲーム理論で証明されていたのではなかろうか? あれも結局は多数の正直者の世界であれば裏切り者が優位という結果を示してはいたけれども。

 話がそれた。

 確かにまぁ、幼児が虫や小動物を弄っているという光景は時々目にするし耳にする。私も小学生の頃、トンボの羽を毟って遊んでいる友人やカエルのおしりに爆竹を突っ込んで点火している上級生というものを見た。私もそれ相応の事はした記憶もある。ただ、あの行為は後にえとも言われぬ罪悪感を感じるものではなかろうか? と思うし、無為に命を殺めればそれを知られた暁には自分もそれなりの苦や罰を受けるものである……筈だと思いたい。
 私がここで疑問符を浮かべたのは、どうもいじめ問題に関する話を聞いているとどうもそれを社会性や社会優位性を身につける為の必要悪として虐められる側を叩いたり、その事象を容認する発言を時折見かけるからである。確かにそういう側面はあるかもしれない。が、それを大っぴらに認めていいものか? それはその行為を容認し肯定・助長するものではないのか? という危機感が今私の中にある。
 老子の中に確か『盗賊の道』という話があったように思う。それは孔子批判だったと思うのだけれども、君子に『道』があるように、盗賊にも『道』があり、それは犯してはいけないものであるのだ、という話だったと記憶している。もし記憶違いであるのならご指摘いただきたい所ではあるが、なんというか、先の自論と対立覚悟で言うのだが、一般人から見て非道を行う集団の中においてもそこにはやはり『道』があったはずだよなぁ、と思うのだ。素人さんには迷惑をかけない、それが極道の流儀だったと思うし、あの集団はかの7字を重要視していたと思う。だからこそ仁義だといったはずだ。

 どうも今は『道』が失われ、自由というものが無軌道で無責任なものになりすぎている気がする。『誰か俺が迷惑をかけたか? もしこれが迷惑だと思うのならばそれはお前が俺に自由を束縛しているに過ぎないからお前が身勝手なのだ』という論調も時々聞く。
 なんというか、馬鹿にするなと思う。
 いや、馬鹿なんだろうな、と思う。

 このあたりは自己の確立……他者と自己の分離が出来ていないのだという話を時々聞きもするのだけれども、個人的には他者の心理を想像できない、想像力の欠如だと思う。それが分離が出来ていないという事だといわれればシャッポを脱ぐ。最近は現場にいるので帽子をかぶっている事が多いので脱ぐ。ただし現場では脱がない。



 ともま、つらつら思うことを書いてみたのだけれども、多分こんな論はありふれたものなんだろうな、とも思う。おおよそ世の中には真のオリジナルというものはないのだろう。オリジナルとはある物事に対する自己の視点による解釈に過ぎないという文言をどっかからかともなく引用して本論を閉じる。
 犯人達に極刑をとは思わない。
 ただ、亡くなったネパール人店長さんとその後家族の平穏を祈るばかり。
 犯人はそれを償う義務を負うとは心の底から思いもする。