水母出る頃は

   「へ、ほーふるふもりはほ?」
   「ねぇ、お嬢さん。食べるかしゃべるかどっちかにしません?」
   ひとけの無い地下街の蕎麦屋。僕たちは遅い昼食をとっていた。僕は彼女に
  あきれたままザルそばをすすった。彼女は一息、ツルンとうどんを啜り込むと、
  満足気に笑った。彼女の名前は水緒といいあれ以来僕にまとわりついている。
   「堅いわねぇ・・・。勉強ばぁーっかりしてきたからそんなんなっちゃったの
  よ。」
   水緒はそういって、キャラっと笑った。
   「そう言えば、私サウナいったのってあれが初めてなの。」
   僕は思わず黙り込んでしまった。
   「女の子が休みたいって言ったら普通ラブホテルに連れてかない?」
   「うるさいなぁ。」
   水緒はクスクスと笑い続けている。そうなのだ、あの夜の帰り道に休みたいと
  言い出した水緒を僕はサウナに連れていった。考えてみれば、まぁ、間抜けな事
  だとは思うが2週間もその事で笑い続けられる筋合いはない、と、僕は思う。
そして、その時僕は少しヤケになっているのがわかった。
   「・・・お前、そんなホイホイ男とホテルに行くのか?あぁ、どうせ私にゃそ
  んな経験なんてありませんよ。お前はあるんだよな、何と言っても今どきの女子
  大生だ。こんな田舎の福井にもテレクラ位はあるんだから、小遣いにも困らんだ
  ろうよ。」
   そう僕がまくしたてると、水緒はそのままうつむいて黙りこくってしまった。
  言い過ぎたかな、と、僕は心配に思ったが、次の瞬間、水緒は肩を小刻みに震わ
  せながら不意に立ち上がった。そして2、3回深呼吸をしたかと思うと、テーブ
  ルの上にタンッと手を突いて真っ赤な顔で僕を睨んだ。
   「そんな言い方無いでしょ?私、これでもほめてるつもりなんだから。・・・
  それに、私男の人とホテルなんて行った事ないわよ。テレクラテレクラって、そ
  れこそ男の身勝手でしょう!マスコミう飲みにしちゃって、これだから理系って
  いやなのよっ。それに自分の故郷でしょ!それを田舎いなかって。もっと誇りを
  持ちなさいよ!!」
   まくしたてる水緒の目に、涙がこぼれた。水緒はしばらく肩で息を切らした。
  そして一言、『ゴメン』と呟いて席に座った。店の人が心配そうにこちらを見て
  いる。僕は戸惑ったまま、『場所変えよう』と席を立った。
   「顔洗ってくる。」
   水緒はそう言って先に店を出て行った。僕は、伝票をおばさんに手渡すと、な
  んとなくばつが悪い気持ちで財布をまさぐった。おばさんは、『1700円にな
  ります。』と事務的な口調でレジを叩いた後、釣銭を数えながら、
   「だめよ、女の子にあんな事言っちゃ。」
   と、呟いた。店の奥ではご亭主らしいおやじさんがタオルを鉢巻き代わりにし
  ながら黙々と蕎麦を打っていた。
   「まぁ、こういう事は凄く不器用なんだろうけどね・・・あんたみたいな人種
  は。」
   と、そう言いながら、おばさんはおやじさんを振り返った。
   店を出ると、水緒がちょこんと立っていた。
   「ごめん、言い過ぎた。」
   僕が小さくそう言うと、水緒はパッと笑った。
   「ねぇ、海行かない?」
   僕は何もいわずに同意した。

   県庁ある福井城跡のお堀端は中心部では数少ないコイン駐車場になっている。
  僕はいつも駅前にきた時はここに車を止めるのだった。鍵を水緒に渡してパーキ
  ングメーターに100円玉を数枚放り込む。すると、メーターにつけられた黄色
  い回転燈が回り出し、アナウンスと共にポールが下がりはじめた。車の方を振り
  返ると水緒がすでに茹だっていた。
   「あっついよぉ。」
   水緒はそれまで羽織っていたパーカーを脱いで、タンクトップ一枚になってい
  た。そして右手で胸元を大きく開けて左手でパタパタと風を送る・・・仕草をし
  ている。僕が車に乗り込むと、水緒は露骨に『暑い!!』というジェスチャー
  して見せた。僕は軽い微笑みと共にウチワを手渡す。水緒は嫌な顔をした。
   「ねぇ、一つ聞いていい?」
   ウチワをバタバタさせながら水緒は言った。
   「車、なんで立体駐車場に入れないの?」
   確かに、日差しの強いこの2時台に露天の駐車場に車を置いておく事ほど馬鹿
  げている事はない。室内が砂漠化するのは自白の明だし、立体駐車場なら日陰だ
  から室温が上がる事も、ない。僕はアクセルペダルを2、3回踏み込んでからエ
 ンジンキーを回した。突然エアコンから熱風が拭き出してくる。僕は黙ってエアコ
 ンのスイッチを切った。水緒は窓から上半身を外に出してぐったりしている。そし
 て恨めしそうな目で僕を見ると一言呟いた。
  「ねぇ、なんで?」
  『ちっ、覚えてやがった』僕はそう思いながらシフトレバーをRに入れた。
  「ただ単に嫌いなんだよ、立体が。」
  「なんでなんで?」
  水緒はシートベルトを着けながら僕を見た。その好奇心に満ちた目が僕を脅迫す
 る。『ちゃんとした理由がなけりゃ、納得いかんぞ』その目は、確かにそう言って
 いた。
  「いや、特に理由はないんだけど・・・。」
  水緒の目が脅迫の度合いを増す。僕は額から汗が吹き出していくのがわかった。
  「だから、ほら、なんか出入りが混んだりすると面倒じゃないか?」
  「なんだ、そんだけ?」
  「そうだよ。」
  僕がそう言うと、水緒の目は明らかに失望の色を呈した。そして水緒はつまらな
 そうにパーカーからハンカチをとりだすとそのパーカーを後部座席に放り込んだ。
  「あれ、左利きだったんかい?」
  「えっ、なんで??」
  僕の質問に、水緒は一瞬動作を止めた。表情は見えないが、何と無く動揺してい
 るのがわかる。『・・・まぁ、いいか』僕はエアコンのスイッチを無言のまま入れ
 た。
  「しばらくは熱いけど、その内冷えるから・・・。」
  「うん。」
  水緒は何事も無かったような素振りを見せた。そして信号待ちの交差点で、彼女
 は思い出したような仕草をした。
  「あっ、そうだそうだ。結局どうするの?」
  「なにが?」
  水緒の質問に僕はふっと彼女の方に顔を向けた。
  「信号、青よ。」
  水緒はちょっと慌てた感じでフロントガラスの方を指差した。僕は前に向き直し
 て、アクセルを踏み込んだ。生まれてから8年目になるマーチはゆっくりとした加
 速で、徐々にスピードを上げていった。水緒は、小さなため息をついて話しをはじ
 めた。
  「再就職よ、あなたの再就職。今日だって職安に行くんで駅前出たんでしょう?
 それなのにブラブラしちゃって。あなた、今日何したか覚えてる?」
  僕は日除けを下ろしながら呟いた。
  「えっと、映画見終わってからデパートブラブラした。あと蕎麦食べて今海に向
 かってる。」
  水緒はまた深いため息を一つついた。
  「どうしてそう危機感ないのかなぁ。そんなんでいいと思ってるの?」
  「うん。そうだけど、お前の方が楽しそうだったじゃないか。」
  僕の一言に水緒がビクッとした。いや、ギクッといったほうがいいんだろうか。
  「ミッション・イン・ポシブル、面白かったよな。」
  僕は、にやにやしながら横目で水緒を見た。水緒は、少しうっとりした目をして
 遠くを見ていた。
  「うん、レオさん素敵っ!」
  「だろ?今だって言い出したのはお前だぜ。」
  「それはそうだけど、うーん・・・いけないなぁ、私。」
  水緒は、そう呟きながら苦笑いをして見せた。僕は水緒のこういう所が何と無く
 好きだ。・・・て、何をいっているんだろう。僕は姿勢を正して冷えはじめたハン
 ドルを握り直した。
  「それはそだけど、あの時の約束いつ果たすのよぉ?」
  水緒は、そういって口をとんがらせた。
  「あの時の約束って?」
  「好きな事してみせるって、あの話よぉ。」
  「あぁ、あれか。」
  僕は、そう言葉を止めて日除けを上げた。
  「うーん、結局まだ見つかってないんだよなぁ。何がしたいのかって。」
  水緒は、両手で頭を抱えてこう言った。
  「それじゃあ私と同じじゃない。」
  僕は、チラッと水緒の方を向いて言った。
  「まぁ、それはそうだね。でも、自分が一番やりたい事ってそんな簡単に決め
 ちゃっていいものなのかなぁ?」
  水緒は、振り向いた僕に『前見て、まえ』と指差しながら言った。
「でも、あなたの場合、行きたい大学に入って、やりたい事をやってきたんで
 しょう。じゃあ、それがあなたの一番やりたい事なんじゃないの?」
  「うーん、そうじゃないかなぁと思うんだけど、ちがうような気もするんだ。そ
 ういえば、君の場合はどうなん?」
  水緒は一瞬僕を見つめてから遠くの空を眺めるように話しはじめた。
  「うーん、私の場合は遠くに行ければどこでも良かったから。福井なんてさ、間
 違っても同級生とか来そうにないじゃない。だからここにしたのよ。」
  「教育学部だったよな。」
  「うん。」
  「福井大の教育学部って、どうでもいいからって入れるもんでもないぞ。」
  と、僕がいうと水緒は軽く伸びをした。
  「確かにねぇ。私も受けるまで知らなかったのよ。模擬テストじゃA判定だった
 し。でも、あなたからそんな言葉が出るなんて思わなかったな。」
  「うん、嫌な事だけど現実は現実だからね。」
  「現実ねぇ。その割には甘えてんじゃないの?」
  僕は、しばらく言葉を探した。確かに現状は甘えているにすぎない状況だから、
 自分でもその事は充分理解しているつもりだったし、それはイケナイ事だとも思っ
 ていた。正直なところ、当惑していた。出来ればどこか遠くに行ってしまいたいよ
 うな感覚。僕は僕をジッと見つめる水緒に答えた。
  「確かにね。」
  水緒が黙ってエアコンを弱める。そう言えば、少し寒いぐらいだ。水緒は後ろか
 らパーカーを取って膝に掛けた。その時、はじめて僕は水緒がミニスカートをはい
 ていた事に気がついた。水緒もこんなもどかしさを感じてるのだろうか、僕はそう
 思いながら無言で車を走らせた。
  不意に、水緒が呟く。
  「でも・・・やりたい事ってさ、いつ見つけるものなのかな?」
深刻な顔をした水緒は、そう言いながら遠くを見つめていた。僕は何かを探そう
 と記憶をまさぐって、それを口に出した。
 「そうだな・・・。大学に入ってからって奴もいたし、俺はまだ見つけられない
 し。」
  水緒は何かを見つけたように頷き、そして僕を見た。
  「高卒の人は?」
  「・・・職業系にいった奴は大体その方向に行ったようだなぁ。でも、ほとんど
 転職してる。普通科でも専修や専門に行ったのはその道で頑張ってる奴が多い様な
 気がするね。中卒は・・・、諦め気味で家業継いでくやつが多いな。」
  少なくとも福井では中卒のフリーターは社会がそれを許さなかった。
  「・・・だね。・・・結論、出ないね。」
  「だな。考えない方がいいのかもしれない事だし、わかんないや。」
  『結局学校ってなんなのかな?私達ってなんなのかな?』水緒はそう呟きながら
 流れる景色を見つめていた。そして、僕たちは海に着いた。

  「思ったより人いないのねぇ。」
  車を降りた水緒は海岸線を見渡しながら言った。
  「まぁ、お盆すぎたしね。それにみんなもう帰る時間だよ。」
  水緒はチラッと腕時計を見た。
  「3時かぁ。」
  そう呟いて右手を下ろす。水緒はパーカーを羽織ると『海岸いこっ』と砂浜を指
 差した。僕は軽く頷いて水緒に従った。駐車場は少し高台にあって、浜辺へは階段
 で降りる事になっている。階段を降りきるとそこには数軒の浜茶屋が立ち並んでお
 り、その間に一つだけ歯抜けになった空き地があった。
  「これ、なに?」
  水緒はその空き地で黒いものを拾うと僕に差し出した。振り向いた水緒に、僕は
 答えた。
  「それ、炭だよ。」
  水緒は『そんなことは解ってる』という目で僕に新しい答を求めた。照りかえす
 日差しが眩しい。僕は手を額にかざしながら水緒に答えた。
  「ここの浜茶屋、燃えたんだ。」
  水緒は『ふぅーん』と呟きながらまた海の方に向き直った。海にはまだ何人かの
 海水浴客が見えた。
  「水着、持ってくればよかったなぁ。」
  水緒が少し残念そうに呟いた。
  「そだな。」
  僕は事なげに水緒に答えた。
  「イタっ!」
  水緒の見つめる先で、一人の海水浴客が悲鳴を上げた。水緒は不安げな顔で僕に
 振り返ると、僕はたいした事はないという顔をしながら答えた。
  「水母だよ、クラゲ。もうそろそろ出てくる頃さ。知ってるだろ、くらげ。」
  水緒は一瞬考えた顔をして答えた。
  「海月?」
  「うん、そう。」
  僕は水緒の顔を見ながら思った。
  「ここまで来たんだから、ついでに水族館にもよってくかい?」
  「うん。」
  水緒は、その僕の提案にパッと笑顔で答えた。そして僕たちは車に戻った。

  東尋坊から数分、海岸沿いに走ったところにその水族館はあった。少しだけ混み
 合った駐車場から1分程歩くと入場口がある。僕は何もいわずポケットから財布を
 とりだした。すると、水緒は『いいよ』と言って、券売機に1000円札を2枚す
 べり込ませた。そしてそのまま、それを隣にいるバイトらしい女の子に手渡す。女
 の子は、営業用のスマイルで水緒にパンフレットをくれた。そして水緒はパンフレ
 ットとチケットの半券を僕に手渡した。
  「ありがとう。」
  僕が言うと、水緒は、
  「失業者にたかってばっかりもいられませんからね。」
  と、悪戯っぽく笑った。
  閉館間際の水族館は、それでも家族連れで沸き返っていた。この水族館の目玉で
 あるイルカショーに集まった観光客だろう。僕たちはその人だかりを尻目に展示館
 へと足を早めた。
  「ちっちゃいのねぇ。」
  展示館へ足を踏み入れると、水緒はそう呟いた。確かに、この水族館はちっちゃ
 い。
  「これなら東京タワーの水族館も笑って入れるわ。」
  僕は無言で笑った。壁沿いに並んだ水槽には海産の魚類が展示され、それはさな
 がら生けすの様な趣だった。室内の薄暗さに僕は陰気な印象を受ける。それでも、
 僕はここが好きだった。
  「ねぇ、来てきて。」
  水緒が大きな声を上げる。その指さす水槽を覗き込むと、そのガラス一面には薄
 く白い、透明な消しゴム屑の様なものが無数に張り付いていた。
  「これ、気持ち悪いねぇ。」
  水緒はそんな言葉とは裏腹にニコニコしていた。その水槽には、特別に説明書き
 がつけられており、それがミズダコの卵である事が記されていた。
  「これが全部タマゴだって、それじゃあこの水族館タコでイッパイになっちゃう
 ね。」
  水緒はキャラキャラと笑って言う。僕はそのまま聞き流して先へと進んだ。
  「どうしたの?だまっちゃってぇ。」
  水緒が後から早足で追いかけてくる。僕は階段を2段飛びで上がり、その水槽の
 前で止まった。
  「・・・・・。」
  追い付いてきた水緒は、僕の横で水槽を見つめて無言で佇んでいた。水槽の中で
 は、無数の海月が水中を舞っていた。
  「これが見たかったの?」
  水緒は、そう呟いて僕の横顔をじっと見つめた。僕は水槽に反射する水緒の横顔
 を見つめて黙って頷いた。
  「地球最初の”生き物”って、こんなんだったって言うね。」
  水緒が小さく言った。
  「きれいね・・・。」 
  青いバックに揺れるクラゲは、白く透明な身体をヒラヒラさせながら、水槽の中
 で生き続けていた。僕は、何と無く嫌な気分がした。水緒は、黙って、僕の腕をと
 り僕の横顔を見つめていた。僕はそしてただ水母を見つめているだけだった。

                                 おわり