いん・まい・るーむ

 ネットをしながらせんべいをかじる。いい加減のどが渇く。冷蔵庫の中のサイダー、俺はそのはじける喉ごしを思い出し席を立った。
「あ、私コーヒーね」
「はい?」
 居間のど真ん中。枕を抱えるように寝そべっていた水緒は目線をマンガに落としたまま当然のようにそう言った。
「自分で取って来い」
「いやー。今いいとこなんだもん」
 何読んでんだ、こいつは。俺は水緒の頭越しにその本を覗き込んだ。
若い女の子が『檻の中から』何ぞ読むな!!」
 水緒は平然と言う。
「だって、あなたの本棚エロ漫画ばっかじゃないの」
 俺は一瞬言葉に詰まった。
まんがタイムmomoがあるだろ、昨日買って来た奴!」
「読んじゃった」
 水緒はケロッと言った。
「じゃあ、あれだ。たまには小説も読め」
「『ひとめあなたに……』も『今はもういない私へ』も『秋桜の空に』も読んだ。ちなみに『完全風俗読本』も読んだし、『諸子百家』も読んだよ。これ読み終わったら『皇国の守護者』をもう一度読み返すの。ねぇ、9巻はいつ出るの?」
「えと、砂糖はいくつだ」
「二つ♪」
 台所に立ち、やかんをコンロにかける。元栓を開き、コックを捻る。数度の放電音、ガスに火がつく。やかんが一瞬曇り、そしてまた元の金属の光沢を取り戻した。食器棚からマグカップを二つ取り出し、一方にはドリップオン、冷蔵庫から取り出したサイダーをもう一方に注ぐ。お湯が沸くにはもうしばらくかかるだろう。俺はサイダーを一口の見ながらコンロの青白い炎を見つめた。そして水緒との初めての出会いを思い出していた。

 愉快な肝臓、フォアとグラというのは確か桜玉吉だったな。俺はそんな事を思い出しながら海を見ていた。
 東尋坊。ここは福井でも有数の……もとい数少ない景勝地で、自殺の名所としても有名だった。崖の先から海面を覗く。そもそもこの地名は東尋という荒くれ者の坊さんが仲間の坊さんに落されて殺された事から来ているのだから自殺者が出ても当然だった。
 気のせいか、視線が背中に突き刺さる。振り向くと土産物屋のおばちゃんが何気ない顔で店に入っていくのが見えた。
 俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。確かに、俺にはそういう気持ちもあったのだろう。しかし夏の日差しに焼かれているうち、もうそんな事はどうでも良くなった。
 俺は数時間前までサラリーマンだった。医薬品卸の営業マン。会社が危ないのは知っていた。しかしいくらなんでも急な話だと思った。ぐりとぐらは子ども達に人気だったかも知れないが、リスとトラはサラリーマンに最も恐れられるコンビだ。栗とリスならバレネタなのにな。自分でも品が無いのは知っていた。1ヶ月後に振り込まれるという100万程度の退職金。それがこの10年の成果。確かに死ぬには馬鹿らしい。
 失業保険はすぐ出るらしい。会社都合にしておいてやる、人事部長は大仰に言った。荷物をまとめて会社を出るとき、経理の女の子が離職票と一緒にくれたと2万円分の図書券。これは残りの有給休暇だったらしい。一日500円。何もないよりはマシな程度。預金は10万、一月ならば十分か。俺はそんな事を考えながら歩き始めた。

                            (つづく)