純粋であると言う事の脅威
純粋であると言う事は果たして正しい事なのであろうか、と時々考える事があります。
そもそも、正義というものが相対的である以上、『正しい』と言う事もあてになるはずも無いのですが。
『純粋』であると言う事は『疑わない』と言う事です。逆に言えば、それは『善悪の判断を行わない』と言う事であるともいえるでしょう。
殺人は『悪』ですよね。でも、これは私たちが持つ『正義』*1がそう規定しているからです。
では、殺人者を殺す事は『悪』なのか?この辺りは微妙です。『悪』を滅するについては『勧善懲悪』の立場から推奨されますが、その行為自体は単純に『人を殺す』行為である訳で、従ってこの場合は二つの観点が相反しあう事となります。
では『戦争』といった場合はどうでしょう。我が国では憲法で『戦争』*2を否定していますから、この想定は日本では持ってはいけない事となるのですが、一般概念から考えれば『戦争』における『殺人』はその相手が『敵兵』である場合もしくは『ゲリラ兵』*3である場合推奨されました。ベトナム戦以降はその概念も揺らいではいますが、少なくとも『戦争』を肯定している国家においてそれは『正しい』行為だといって構わないでしょう。
ベトナム戦以降と書きましたが、これは若者達が国家に『疑問』を持った故に起きた揺らぎであるといえるでしょう。*4
『純粋』である事は、一見正しい事のように思えます。もちろん、ある意味において『純粋』であることは紛れも無く貴重なことだと思うのです。
昨今は自分の欲望に対して『純粋』過ぎる人が多くなりすぎたような気がします。
そしてそれは、ある体制に対して『純粋』過ぎる人々が起こしているような気がしてならないのですが。
『正義』同士の戦いに、妥協などありえません。
ならば、『正義』など要らない様に思います。
限りなく灰色で、構わないのではないかと。だから私は『純粋』ではなく、これからも『あまのじゃく』に生きていこうと思います。いろんなものに疑問を持って、いろんなものを疑いながら。
ただ、それはひたすら面倒くさい事に違いないのですが。