板場寝

 そんな用語があるのかどうかすら疑問なのだけれども、最近私の睡眠はそういうものになっている。

 料理旅館などに勤めている板前さんは、睡眠を細切れにとっているように見える。……正確には私の父親がそうだ。私は子どもの頃、起きている父親を見る機会にあまり恵まれなかった。おかげで、今でも父親を見ると妙に緊張してしまう。それは、起きている父親を見るというのが給料を持って帰ってくるそれぐらいだったからなのだろうと思う。福井でも1・2を争う高給取り、父親はそんな人だと聞いていたし、実際給料袋は机に立った。中に入っているのはつまり1万円札なのだが、そんなものを見てしまうと子どもは『僕が食べていけるのはこの人のお陰なんだ』と嫌でも実感してしまう。
 話は横道に逸れたが、つまり私の父親≒板場さんは細切れに睡眠を取っていた。その理由は簡単で、料理旅館などにおける板場の仕事は朝食の準備と夕食の準備の二つ、だからだ。朝は明け方から市場に仕入れに向かい、朝食の準備。届いた食材の下ごしらえ、そして仮眠を取り、夕食の調理に入る。夕食が終われば今度はその後片付けや仕込みなど、それが終われば仮眠を取り、また明日の朝食に備える。昔聞いた話では、どうもそんな感じらしい。だから板場さんは昼寝をする。当時料亭に勤めていたうちの父親はやはり朝方まで酒を飲みつつ起きていて、陽が登ると眠っていたようだ。で、私たちが学校に行ってから起き出して、仲卸さんやその他に仕入れの状況を確かめ店に向かっていたらしい。確か、その料亭にはやはり板場専用の3畳ほどの小部屋があり、そこで昼寝をしていたように聞く。私がそこに預けられていた時はたいてい花札をしていたような気もするが、どうなのだろう。
 一番最初に勤めた弁当屋の親方もそうだった。朝3時から工場は起動して、8時頃には始末をしてしまいそこから翌日の仕込みに入る。社長は9時〜18時で働いていた人なので会議というものがあると16時ごろからだった。だから、そこに出席しなければならない現場の人間はどこかに隠れて昼寝をしていた。親方は更衣室だったし、私は検査室だった。他の同僚がどこで寝ていたかは知らない。

 ただ、細切れの睡眠というのは体を痛めるような気がする。
 父親は最近、よく『板前という仕事は瞬発力の仕事だから体を痛める。だからそんなに長生きはしないし、そもそもしたいとも思わない』と呟く。

 弁当屋の時お世話になった某保線区出身の労務担当の方は当時現場にいた私たちに『7割で仕事をしろ。でないと潰れる』と教えてくれた。だけれども、悲しいかな私たちは『120%』で働く事を要求され続けた。お年寄りは年金が当たる歳……というか前日になると辞めていった。若い者は、来ない。それどころか中年すら来ない。バブルがはじけたあとだったから、労働力は余っていた筈なのだけれども、時給も1,200円以上と破格ではあったし、それでも下見に来た採用内定者は期日には来なかった。時々、その会社の人に会うと雑談もするのだけれども、私の後毎年3人づつ、合計9人の大卒者が入社したらしいのだが、現場担当者では私が一番長く辞めずにいたのだそうだ。私はそれを聞いて苦笑するしかなかったのだが、私はその会社を4ヶ月で辞めていた。残業100時間、正社員でなかったから残業手当話。もちろん深夜勤手当など想像も付かなかった。多分そういうものがあることを知らなかったのだろう。前出の9人の中には社員を辞めパートになった者もいたらしいのだけれど、彼が言うには仕事が楽になった上給料は倍になったと喜んだそうだ。
 ……今ではその会社も近代化され当時よりは良くなったと聞いてもいる。あの頃、そういう事になっていたのはそこにいた人が皆叩き上げだったからなんじゃないかと誰かからか聞いた覚えがある。確かに、製造部長は小僧さんで入ったそうだし、製造課長(弁当場の親方)もサラリーマンというより板前だった。営業や労務関係者はとある団体からの引抜だったし、その他パートさんの平均年齢も60近かったのだと思う。それに、皆パートを掛け持ちして働くという、ある意味苦労人ばかりだった。

 当時、工場の階段から月の明かりを見た時自分がどこにいるのかふと疑問に思えたことがあった。高度成長期に建てられたというその工場は当時では最先端の建物だったのだろう。リノリウム張りの廊下、銀線の様な縁取りのサッシ、階段には木製の手すりがつけられ、それは黒光りをしていた。担いでいた米びつは重かったし、現場では親方の怒号が飛び交っていた。楽しくも、面白くも無かったが、少なくとも嫌いではなかった。支給された朝食。ネギのぶつ切りが入っていれば『誰か誕生日だったか』と尋ねあった熱いだけが取り得の味噌汁を昨日の残った冷や飯にかけて食べるのはどちらかと言うと好みだった。

 結局、私も瞬発力で仕事をしていたのだと思う。だから、壊れやすいのだろう。
 父親は3年働くと1年ほど遊んでいた。私たちがどうやって食っていたのかは今考えると想像も出来なかったが、当時は何の疑問も無く暮らしていた。最近聞いた話では父親は『スケ』と呼ばれる板場の日雇い仕事で生計を維持していたらしい。先日私が会社を辞めようかと思うんだと相談に行った時、『それもいいな。失業保険もあるし。わしは受け取れって言われても受け取らなかったけどな』と言っていた。
 サラリーマンである私には、そんな芸当は出来なかった。誰かの手伝いをして手間をもらうほどの技術も無いし、失業保険をもらえるまでどうやって暮らそうかと試算もした。そもそも辞めた所でどうなるのか、とも思ったが、もう壊れてしまったので戻りたくは無いとも思っている。

 どっちにしろ、壊れたのは何も睡眠だけではなかった。それが壊れたのは自分に緩急をつけると言う事が出来なかったからだった。7割で働けとは、そういう事だった。忙しい時には10割の力を出さなければならない。常時10割で動いていると、忙しい時には壊れるしかないのだ。

 目を覚ました夜中、私はそんな事を考えていた。