通院。

 16時半に予約だったので16時ちょっとに家を出て病院へ。
 さくら通りを走っていると、いつもなら踏切に引っかかる時間帯なのですが、今日は引っかからず。あー、昨日からJRは高架線になったんだな、と実感。昨日テレビで、朝新聞をでわかってはいたものの、確かにそうなんだなと。病院について車を降りるとちょうどJR貨物のコンテナが高架の上を過ぎていくのが見えて。写真を撮るならやっぱり花堂跨線橋しかなくなったんだな、と。
 この間花見に行った時、旧鉄橋を走っていく電車も何枚か取ったのですが、写るんですですし、腕も悪いのであんまり良く撮れていなくて。
 診察30分待ち。その間に週間文春を拾い読みして。以前はそんな気も起こらなかったのですが、ちょっと余裕が出てきたのかな、とも。
 先生とお話。経過は順調、連休明けぐらいから働いてもいいんじゃないとの事で。問題は仕事か(^^;実家が動くまではバイトでもするか?短期バイトなんてあるのかな??
 身体も少し動かすようにとの話に、この間花見で10kmほど歩きましたと答えると苦笑にも似た笑みを頂きました。あんまり無理はしないようにね、とやんわりと窘められて終了。

 これからの生活の事なんかも考えると、上京は正直どうしようかと。だいたい一回上京するのに6万を見るのです。友人宅に泊めて貰うにも体調があれなのでどうしてもホテルを探すことになりますし、深夜バスは嫁が『今のあなたには無理』との事で。実は、家賃光熱費ひっくるめて月十八万程度かかっている計算なので、それに対して収入の当ては無し。退職金はもらえるのですが、それも温存すべきなのかなぁ、とも。

 どっちにしても、家の仕事に就けばもう上京は無理でしょうし。その覚悟は出来ているのですが……。


 子どもの頃、私の父親は職業調理師と言う奴で、店から店へと腕一本で渡り歩いていました。こういうとかっこはいいのですが、逆に言うと職が定まらないとも。いや、職は板前な訳で、実際は収入が定まらないのですが。母親はあっけらかんとしていましたし、父親はいざとなるとどこからとも無く金を工面してきて。ただ、継ぐべき何かというものがそこには目に見えませんでしたし、弟が板前になった以上私は家を出て何か違う仕事をしなければとこの10年間あがいてきたような気がします。
 継ぐべきものは、父親の技術だと言うことに気が付いたのは5年前ぐらいで。ただ、父親は業界を眺めていて技術不要論に陥っていて。実際商社系が外食産業に進出し、調理師学校を出た料理人が店を出しては潰れ、店を出しては潰れ。一部の成功者は結局金勘定に長けていたか、客層を絞っていた訳で。そういう仕事を父親は嫌っていて、私も無理だろうな、と。ならばどうしようか、と言う話を続けていて、会社の(人事部もその頻度を把握していなかったと言う)目まぐるしい配置転換で疲れ切ってしまって鬱になったんだろうな、と。

 素地は大学卒業した時にもうあったんですよね。一部の友人は昔『今からでも技術系にもどれ』と言ってくれていたのですが、今となっては無理だろうなぁ、と。♪気が付きゃ私も32、三流私立大学卒。職場職場を転がり、最後にゃ鬱で辞める〜ではどこも拾ってくれないでしょう。

 となれば、やはり実家に入って、父親が死ぬまで(数年と言ってますが)いくらかでも父親の技術を継承しようと。私は子どもの頃から雑だ、不器用だと言われて育ってきたのですが、包丁は弟に任せて、加工の方を担当すれば出目もあるのでは無いかと。


 でもま、やっぱ5年遅かったよなぁ。生物学に未練が無い訳ではないですが、文章を捨てるのも無理だとは思いますが、ま、やらなきゃならないんだろうと。

 父親は自分達の世代を『道具』と呼びました。私達の世代は『使い捨て』られる世代だそうです。で、あと数年後には『金の卵』と呼ばれる若者達がまた登場するのでしょう。90年代、会社組織は効率化重視で『技術』を捨て、00年代になると中高年リストラで高賃金社員を切り捨てました。曖昧な判断基準と何の教育も施されない採点者による成果主義の導入、フリーターは忌み嫌っていながら正社員を採ろうとしない会社。

 20年後、どこかに畑のある家を持てればと思います。嫁さんと二人、食っていけるだけの蓄えと。多分私は60まで生き延びないでしょうから、少しでも嫁さんに残してやれればと。……三十路の夢にしては淋しい限りですが、少なくとも現状を見るとそれすらも程遠い願望にしか見えないのです。