仏教と生物学の間  『いのち』についての考察

 仏教の世界では、人(生き物)は死ぬとその生前の業で別の何かに生まれ変わると言います。その思想は六道輪廻と言う思想で、仏教はつまりはその魂の循環からの離脱≒仏となることを目指します。仏様がいる世界が極楽です。で、上座部仏教では自力でそれを行うのですが、大乗仏教では何か他者にすがってそれを行おうとします。浄土宗では、弥勒菩薩が降臨するまで新たに仏となれるものはいないと言う思想から阿弥陀仏にすがり、一時避難的に浄土へと退避し弥勒菩薩の降臨を待ちます。浄土真宗はその核となる教えにおいて浄土宗の一派に過ぎないとも言えるのですが、それは別の話。

 仏になるとは、つまりは自然≒宇宙への回帰であり、無への回帰であると考えています。

 これは私が高校時代に聞きかじった話を自分なりに解釈した話なので、多々間違いがあるでしょう。


 一方、生物学の世界で生命とは一つの現象と捉えられています。生物とはつまり4つの作用・異化作用/同化作用/自己保存作用/自己複製作用から成り立つものであり、その本質はただの分子の集まりに過ぎません。炭素を核に酸素や水素、窒素などが結びついて出来たアミノ酸を基本材料とした酵素が生み出す様々な高分子の詰まった袋。死とはつまり多細胞生物であればその統御組織が機能を停止した瞬間であり、細胞レベルであれば酵素反応が停止した瞬間と言えるでしょう。そこに意味などありません。

 ただ、生物とはSF的に言ってみれば熱力学の法則に逆らう存在であり、エントロピーを減少させる唯一の機構であるとも言えるのかもしれません。厳密に言えばそれは間違いなのですが、まぁ。>エントロピー増大則は外部よりエネルギーが供給されない条件下での話であり、外部から何らかの力が加わればエントロピーは減少する事もあるので。また、生物は進化の過程でその種を複雑化していくのでそれ自体の乱雑さが増加しているとも言えなくも無い訳で。

 しかし、少なくとも現段階で生物は時間を記録する装置であるという事だけは言えそうです。
 なぜならば、多くの生物はその発生時系統的な発生を行うからです。単体の細胞だった受精細胞はまず分裂を繰り返し、魚・両生類・爬虫類という生物進化の系統を辿り最後には人間の形として生まれてきます。ただし、人間はサルの幼生体であると言えるので、ヒトとして生まれてきたものが人間になるにはそれなりの教育が施される必要があります。
 また、樹はその中に時間を内在します。屋久杉などを思い浮かべてくださるとわかりやすいのですが、あれは数千年の時間を内部に封じ込めた存在です。

 で、あるならば生物はやはり貴重な存在だともいえます。少なくとも我々は現在の技術レベルでは時間を取り戻すことは出来ません。だとしたら、時間の缶詰たる生物を失った場合、我々はその時間を失う訳で、それを取り戻す事は出来ないのです。


 我々は、その事実にあまりにも無自覚では無いかと思うことがあります。
 命とは軽んじられるべきものではない、と。