科博が大学生無料策?

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050508k0000m040103000c.html
上野の国立科学博物館が会員大学の学生の入場無料・単位付与策を打ち出したんだとか。
学生時代、良く科博に出入りしていたものとしてはうらやましい限りで。最近の科学博物館に多い『子どもが遊んで学べる理科』には興味が無いので最近は行ってませんが。

中学時代、捕虫網を持って山野に潜む生活を送っていたのですが、そこでの先生の呟き。『受験さえなきゃすべての生徒をフィールドワークに参加させて、ともかく自然を体感させたかった』と。科学は、まず見ることだと思うのです。それでそれが不思議だと思った人間は、勝手にその道を歩みだすはずで。確かに、そんな科学・技術志向者の受け皿として現代の日本社会が機能していないのは確かで。工業高校はどちらかと言うと落ちこぼれの溜まり場とされていますし、まともな人間は大学に進むもんだとされています。で、起きたのがこの現象。子どもの理科離れ少子化ですね。

戦艦大和零戦の話を聞かされ、当時の日本の技術力に感嘆し、歳を経る毎に知るその異質性……特定の技術力は持っていながら組織的・汎用性の問題でそれらが他の分野にフィードバックしていかない、生かされない事実。海の上を巨大戦艦が征くのに対し、戦車の装甲は小銃弾が貫通する。野戦飛行場は人力で構築され、そこに降り立つ最新兵器。ただし部品が供給されず、燃料・食料も無いとなれば、それはただの鉄くずに過ぎず。


宇都宮に居たころ、長岡街道という大型車進入禁止の看板がかかっているにもかかわらずダンプが進入してきて、道の途上ですれ違えず、自転車すらも渋滞に巻き込まれ身動きが取れなくなるという道がありました。ですから、当然そこには新道の整備計画があったのですが、遺跡が出てきて完成したのは結局初期計画より3年後で。近所の旦那さんは、『遺跡なんて、気にしなけりゃいいんだ。そんなものを研究してなんの役に立つのか?』と。それは確かに真実で。ただ、多くの人が意味が無いと思っている事にこそ意味があったりするというのも事実で。遺跡を掘ればその頃の生活がわかる訳ですし、技術発達過程がわかる。少なくとも、江戸時代までここは沼だったんよと聞かされて育った人間にしてみりゃそこに縄文の頃からの営みがあったのだというのはうらやましい事で。

 星を見上げる事に何の意義が?カミオカンデの維持費があるのなら新幹線を作れ。諸説ごもっとも。ただ、新幹線を作れと叫ぶ人たちの中には、それでポケットが膨らむ人も居る訳で。高速増殖炉なんて作るなってのもわかった。ならばコ・ジェネレーションシステムや太陽光発電をもっと進めようという運動を展開した方が実利的じゃないのか、などとも。結局はそれもポケットを膨らませる手段だと思っている人がいるからで。


 世の中に純粋さを求めるのは幻想なんだろうかな、と。

 今度上京したときは日本科学未来館に行ってMEGASTAR-IIを見てこようかと。
 少なくとも、あれを作った人は純粋だったんじゃないかな、と。