歴史にIFはないと言う。

 それは当然で、もし『もしも』をやった所でそれは現状を生み出さず、その『もしも』が発生しない。

 だから今日まで自分が歩いてきた道を振り返っても後悔なんぞはするべきではない。反省もする必要は無い。学べば良い。覚えていれば良いと言う。忘れなければ良いと言う。

 夜詩さんのやってることは面白そうだなと思うのだけれども、電子回路は小学生の頃手を上げてしまったし、自分が歩いてきた道は結局『システム』を見る事だったのだろうと。

 例えば生命。不思議なのは多細胞生物。クラゲはなぜクラゲであるのか?粘菌は総てが等しい細胞で構成され、その一つ一つが単細胞生物としても生きて行けるにもかかわらずまるで個体の様に動き回る。蜂や蟻は個体の持つべき機能をそれぞれの個がその機能を特化させて巣そのものが一つの個体のように振る舞う。群体という言葉がこれを指すのか?
 例えば生態系。植物は地中の無機物を吸い上げ、光合成により有機物を作り出し二酸化炭素を吸い酸素を吐く。草食動物はその植物を食み、肉食動物は草食動物を食む。総ては死して菌類に分解され、それをまた細菌類が分解する。そして有機体は有機物となり無機物に還る。総ては一つのわっかの中に納まり、それぞれがそれぞれに影響しながらその姿を維持していく。
 例えば軍隊。軍は国、すなわち国土と国民、そしてその国民固有の歴史や風俗を守る為に存在する。しかしそれは人の為す事の悲しさ。時に軍はその本分を忘れ、国を食み、民の血を吸い軍そのものを維持しようとする。
 例えば会社。会社は大きくなろうとする。そして倒れる。なぜ会社は倒れる事を知りつつも拡大の道を辿るのか?

 自然の為すものには無駄が無いという。無駄に見えてもそれは何かの役に立っている。
 そんな理屈を、社会に持ち込めればいいなと思う。


 癒しだとか、そんなはやりを追うつもりはない。昔ながらの拠りどころが作れればいいなと思う。いざと言う時、誰かが逃げ込める場所を造りたいと思う。

 今漠然と思うのは、そういう事なんです。