(長文・雑記/mixiより転載)会社が求める人間像/理系と文系の溝な

 私が就職活動というものをやったのは今から16年ほど昔の事なので多分現在の状況とは異なるのだろうけれども、ふと思った事があるので書いてみようかと思うのです。

 Twitterでとある判断力が欠如し、その上状況認識・日本語理解能力に欠陥がある上にそもそも統率力すら欠如していると思わしき某リーダーのお話やはてな辺りに居ると言う一芸否定派のお話を『聞いて』いて思ったのですけれどもね。

 
 さて、どの辺りから書いていったものか。

 私の周囲には、おおよそ文系と呼べそうな方というのは少ない、という辺りから。
 ご存知のように私の両親は調理師・美容師で、物心がついたあたりに周りにいた大人は皆何かしらの技術者でした。近所を眺めるとダンプの運転手、配管工、電気工、印刷工、自動車整備士といった人ばかりで、親戚に到っても付き合いがあるのは機屋に公務員(技官)。父親の仲間はそのほとんどが板前で、例外は保険屋の代理店さん。おおよそ一般に言う勤め人という人がおらんかったんですな。
 そんな中で私は高校に進学したのですが、行った先は理系の進学クラスで、そこにあったのは『文系に進んで一体何をするつもりなのか』という風潮。大学で知り合った友人が高校時代、『理系に進んでどうやって喰っていくつもりなのか』と言われていたのだという愚痴(?)に触れた時はその言葉が理解できずにおりました。
 で、現在マイミクさんを眺めてみても漫画家さんやデザイナーさん、板前に流通関係というラインばかりで、公務員な方も数人居られるのですが、はて?彼らはそういう意味において『サラリーマン』なのかと考えるととてもそうは思えない。流通系の友人(一応リアル友人といって良いよね?)に関してもその基礎スキルは農業(not農学)で、そのお父様も技術者だったとお聞きします。

 いやま、自分もしばらく『商社』という所に身をおいた時期もあるのですが、一緒に仕事をさせていただいた方は若い頃『生産管理』をやってた方とか、そもそも職人肌な方ばかりだったのでどうもその辺り自信がない訳なのです。

 以上、この辺りが私の背景。


 現在、業務仕分けという奴が進行中ですが、これは科学や技術と言ったものを蔑視しているというか、それがどのように成り立つかまったく無視した上で動いているような気がします。多分彼の党には『戦略』というものがないんでしょうね。前回の業務仕分けの際、私も民主党福井県連さんにお邪魔してその辺りをうかがったのですが、どうもその辺りは流れていないのだという事で、INDEX2009や政策集なんかも見せていただいたのですが、その中には『科学技術推進』という言葉すらなかった。ネットで調べてみると2006年辺りにそういう言葉があるんですかね?でも、実行方針というか、戦術レベルに落とし込んだ方策ってのはやっぱりどこにもなかった訳で。

 報道などを見ていますと、日本は『技術立国』だとか『科学立国』だとかしきりに謳われていますが、その記事の内容を見ますと『カイゼン』だ『カンバン方式』だという話ばかりで技術については何もない。……西城秀樹さんが小脳梗塞に倒れられた時、サークルKのレジに流れるニュース速報に『小さい脳梗塞』という文字が躍っていたのを懐かしく思い出します。

 つまり、なんだ。
 『理系』側から見て、『文系』というのは技術とか科学とか、そういったものに対して理解できない存在なんだろうな、と言うのがあるのですね。文系は自分が理解できない事は無意味な事であるという風に認識しているのだろう、と。だから、それを理解する努力なんてのは必要なく、そんなものにかまけている人間は無価値であると思っているんじゃなかろうか、と。
 まさに理系に対して『オタク』という蔑称を用いるあたりがそんなところなんじゃなかろか、と思うんですけれどもね。
 あと、『文系』側から見れば、『理系』と言うのは物事の道理を知らないという風に思ってらっしゃるんじゃないかと。ここで言う道理とは、詰る所組織内におけるバランスとか力学の話であるんですが、あと、理系はコミュニケーション能力がないという認識もあるんじゃないかな、とも。

 まぁ、この辺りは私の思い込みなのでアレなのですが。


 話は変わって。

 私が就職活動をしてた頃、お世話になった物理学教授からこんな事を聞かされました。

     『俺が人事だったら理系だろうが文系だろうが体育会系を取る』

 今思うと、つまりそれは上からの理不尽な要求や無理無茶無謀に対処……とまでは行かなくても精神力(機能停止に陥らない程度の力)があるから、というお話だと思うのですが、それはそれ、まさしく正しい事なんだろうな、と。
 あと、当時はゼン○ョーが文系なら日東駒専レベルで足切りをしていたりもしましたね。ふと思うのはつまり学歴と言うものは、そこで何を学んできたのか?が問われていた訳ではなく、多感な少年少女時代を理不尽とも思える詰め込み教育に費やし、その上で要領を得て辛抱してきた事を推し量る為のインデックスに過ぎなかったのではないか?つまりは学歴社会というもの自体が教授の言う所の『体育会系』を養成する場所だったのではないか、と思うのですね。上への絶対服従・忠誠が求められ、(あるベクトルにおいて)強靭な精神力が求められる日本型企業社会への適応はその辺りで必要だったんだろうなぁ、と。で、この場合理系も文系も関係ないのですが、まぁ、理系の人間が銀行には入れないでしょうし、文系の人間も好き好んでラインに立ちたいとは思わんでしょう。あと、一芸に拠って組織に組しない人間てのはやっぱりこういう辺りからは睨まれる対象ではあるんでしょうな。


 ただ、やっぱり不思議に思うのは、現状企業は人を育てる事を放棄して、幸を与えず忠を求めるという事。いや、労働者の価値が暴落したってのは確かにあるんでしょうけれども、それにしても潜在的消費者である労働者ってのを軽視しすぎるってのはやっぱり奇妙な気もするのです。

 
 話がとっ散らかったので、以上。