タイヤ交換/診察/予定確認

 起床は9時ごろ、そのままうつらうつらと2時間ほど。その間宅配便2本。届いたのは試供サンプルと月刊現代農業の別冊号。帰農ブームと言う反面、我が愛する坂井北部丘陵地でも農業の担い手不足が深刻化しているそうなのですが、中々就農する人が少ないのだとか。
 以前パネルディスカッションで大規模専業農家さんとレストラン経営の人、あと小規模酪農家さんの討論を聞く機会に恵まれたのですが、印象に残ったのが小規模酪農家さんの『農家は食べ物を作っているのに喰えないとは不思議でしょうがないんですよね』との発言。大規模農家さんは特産品と直取・直販を駆使しなければ喰っていけないという話をし、レストラン経営の人は特産品は高くて使えないと言う。特産品を農家が作るのはそこに高付加価値がある(と信じている)からで、市場へ流すほどの量が生産できない為流通そのものが出来ていなかったり、したとしてもその付加価値を維持する為にどうしても高価になる。だからレストラン経営の視点から見るとそれはとても高すぎて使えないと言う事になる訳で、安くて良いものを求めようとすればそこには必ず無理が出る。無農薬野菜や有機農法緑健農法の野菜が高いのは手間がかかったり収量が少なかったりする訳で、だからこそ一個当たりに乗るコストが割高になり結果高くなる。それは自明の理だと思うのだけれども、両者がその要求を盾に話をしだすとどうしても無理が出る。
 そもそも、安価な食品が出回ると言うのはそこに何かしらの理由がある訳で、例えばそこでは流通コストが削減されている=産直で販売しているからだとか、生産コストが極限まで押さえ込まれているからで、前者の場合はともかく後者の場合はそれそのものが旧来のスペックを持っているはずが無いのだ。例えば昔のトマトはもっと強烈な匂いがしたとか。私も近所のおばあちゃんが夏に路地で作った完熟トマト(大体あの当時完熟なんて言葉が無かった)を1袋100円で買っておやつに齧っていたものだけれども、あの青臭さは今のトマトには無い。最近の子どもに人参嫌いが減ったと言うが、それは人参のエグミが減ったからで、それにはもちろん種子会社のたゆまぬ品種改良への努力もあるのだけれども、昔のものと今のものではモノが違う好例だと思う。*1卵に至ってはもう笑うしかないのだろう。山肌で自由に走り回ってその草や虫を食べる鶏が生む卵も真っ暗な鶏舎の中ケージに押し詰められて輸入配合飼料を卵へと加工する為の生体部品化している鶏の卵では風味も値段も違って当たり前なのだ。ただし、ここで私は後者を批判するものではない。卵は風味云々はともかくそれ自体が滋養にあふれる食物である事に違いは無く、後者のような生産がなされなければ我々庶民は卵にありつく事が困難になるだろう。牛乳然り。昔ながらの牛乳を飲みたければそれなりの対価を支払う必要がある。それが嫌なら従来の『水より安い』といわれている米国産トウモロコシで育てられた乳牛の乳を飲めば良い。*2

 閑話休題。ではそんな情勢の中で小規模酪農家さんはなぜ『食えるのに食えないというのか?』=『食えるでしょ』と言ったのか?そこには『食う』という言葉の取り違えがある。
 例えば、大規模農家さんが食えないと言ったのは『サラリーマン並みの収入を得るのも難しい』と述べている訳で、一方小規模酪農家さんは純粋に『食うや食わず』と『食う』と言っていた訳である。自分で作ったものを食う。食うものを作る。それで食えないのは嘘だ。だが問題はそこに発生する出費〜固定資産税や労働対価、そういったものを払った後現金が手元に残るかと言えば、それはほとんど残らないだろう。その辺りをどう考えるかは個々の価値基準でいい訳だからここで触れるべきではないと思うのだけれども、ともかく、大規模農家さんと小規模酪農家さんの発言は共に真実であり、であるから興味深かった訳である。

 
 私も農業をいずれはやりたいと思っている。ただし、私がやりたいと思うのは小規模酪農家さんの仕組みの方で、とりあえず半自給的なシステムを作りたいと考えている。それには一体どれほどの資金が必要で、そもそもそんな事が出来るのかどうかはまだまだ検討が必要なのだけれども、ボチボチやって行こうと思う。

*1:後者はともかく、前者=ハウストマトはその栄養価において昔のモノと遥かに違っていると言う。これは五訂食品成分表が旬のものとそれ以外のもので成分を別記している事からも言える。現場の職人はその茹だり具合や味でその違いを早くから指摘していたそうなのだけれども、行政は中々良い顔をしなかったらしい。親方曰く『日本海産の鯵と東シナ海産の鯵、太平洋の鯵は同じ鯵でも別物と考えなきゃあならん。旨みも違えば食感も違う。だからそれぞれに対応して処理を考える必要がある』職人の知識と言うのは経験の産物であり、中々それを科学面からバックアップしようという事はされないのだから仕方無いのかも知れない。

*2:雪印事件について私は雪印だけではなく流通にも責があると考えている。一本100円を切る低脂肪乳などどうやって作ればいいのか?値段を下げるには営業主導の企業であれば何をやっても構わない、という姿勢になるのは当然で、そんな商品を嬉しがって買う消費者もその対価を払わされたといわざるを得ない。もちろん亡くなった方は気の毒であり、そこにはまた別の問題が潜んでいる訳だが、あの事件に関しては無責任に雪印だけを叩くのはどうかと思った。……結果雪印は無くなり、その生産工場もいくつかが閉鎖され大量の失業者が発生、その煽りを受けて生産能力以上の牛乳を製造せざるを得なくなった工場は次々と異物混入〜殺菌処理時の次亜塩素酸ソーダが製品に混入し自主回収/操業停止となり最後には牛乳の供給自体が不可能という地域も発生した。これはすなわち安さこそ正義という背景が引き起こした例で、吉野家の牛丼販売停止も同じような背景下にあると考える。時々不思議に思うのだけれども、自分達が以前400円払って食べていたものが300円になる事に不信感は覚えなかったのだろうか?マクドナルドの経営不振はまさにこの辺りにあるらしいのだけれども、マクドナルドの価格破壊を諸手を上げて賞賛したエコノミストがまだ元気にコラムを書いているのを見ると不思議でしょうがない