雨の夜、飲み屋の風景

 冷蔵庫のコンプレッサーが低くうなっていた。閉店まであと2時間、葱をきざもうかどうしようか。外は雨、この分だとお客はないだろう。つけ場の方を見ると親方が不機嫌そうにむきものをしていた。カウンターの客席側からうっすらと煙が見える。多分女将がタバコを吹かしているのだろう。どうしたものかと思い弟……とは行ってもここでは兄弟子なのだが……に声をかけようとした時、自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
 女将と親方の声が響いた。心なしか嬉しそうだ。団体さんが来たのかと思い、カウンター越しに客席を覗くとそこには1人の中年というには少々歳の過ぎた男が今席につこうとしている所だった。頭を綺麗に刈り上げ、体躯はがっしりとしている。目は鋭いが、その口元になにか締まらないものが浮かんでいた。私は男に挨拶をして厨房へと戻った。
「なんにしましょう?」
 女将さんの声、男は何をかを呟くように言った。
「お客さん?」
 弟の声に、無言でうなずく。
「確か、土建屋の旦那さん。前よく若い人と来てた人だ……ったと、思う」
 私がそう答えると弟は何も言わずに蒸し缶のコンロに火をつけた。
「先付!和え物出せ。焼物、煮物、揚物準備しろ」
 厨房に顔を出した親方はそれだけを言ってつけ場へと戻って行った。私は冷蔵庫から仕込んであった和え物を取り出し、小鉢に盛り込んでカウンターへと向かった。
 
 男は、静かにビールを飲み始めていた。確かこの旦那さんはいつもはもっと明るい感じの人だったように思う。今日はやけに沈んでいる。あまり声はかけないほうがいいか?声を潜めて先付けを出した私はそのまま厨房に戻った。
 焼物と煮物の皿を戸袋から出していると、旦那さんがボソボソと何かを話し始めたのが聞こえた。
「俺、もうなにがなんだかわかんなくなったよ」
 親方が刺身を引きながらそれに答えた。
「どうなさったんです?」
 親方の問に旦那はやや忌々しげに言葉を返した。
「どうもこうもねぇよ。あのな、親父。聞いてくれや。あの、前つれて来た奴な。あいつは駆け落ちでこの街に来やがったんだけどや。覚えてるか?親父」
 親方が曖昧に頷くのが見えた。そういえば、なんというか無造作な髪型で目つきの悪い若い男を確かに旦那は連れてきた事があった。確かにその時、旦那は物静かな髪の長い女の子を一緒につれて来た。『こいつらにカニカニ食わせてやってくれ!』旦那はそう言って大笑いしていたのを覚えている。
 加温していなかったフライヤーに火を入れる。フライヤーはつけ場にあった。揚物の準備を仕掛けていると旦那は投げ出すように話を続けた。
「確かによ、ここの所めっきり仕事も減ってきて。それでもあいつらだけは俺が守ってやらなきゃならんと思ってよ。他の奴辞めさせてもあいつは残してきたんだよ。子どもも出来たばっかりだったしよ」
 それもどうなんだろうな?とは思ったが、確かに行くあてのない二人を放り出すのは酷だ。熱せられた油が作るもやを見ながら、私は衣を立てた。親方が刺身を出しながらこちらちらりとを睨んだ。私は慌てて厨房へ戻り、のぞきに醤油を注いでカウンターへと出た。
 旦那は呟くように言っていた。
「それがさ、今日になってあいつ。『どうしてもやらなきゃならない事がある』って。彼女はどうするんだ?って聞いたら連れて行けねーなんて抜かしやがった。俺の目が狂ってたんかな」
 親方は何も言わず、寿司のネタを引き始めた。
「そんな事はないでしょう?社長さんは間違いないです。その若い衆がおかしいんですよ」
 女将が場違いな明るい声で言った。背筋が凍った。旦那は女将を睨んだ。
「だからよ、そしたらそれを見抜けなかった俺の目が節穴だったってことじゃねーか!」
 怒号に近かった。女将は少し表情を強張らせていた。私が『お母さん、焼物そろそろ上がります』と言うと、女将は厨房に走るように去った。
「で、その彼女はどうしたんです?」
 親方が呟くように言った。旦那はコップに残っていたビールを一気に呷ると苦々しそうに、しかし弱り果てたように答えた。
「それがよ、あいつ。『私があの人を無理やり連れてきてしまったから。それが間違いだったんです』って言ってよ。子どもは1人でも産む。それが私にできる唯一の償いなんだってよ……」
 最後は消え入るような声だった。私がカラになったコップにビールを注ぐと、旦那は呟くように言った。
「飛べない翼に、意味なんてないんだ……って、何のことだよ」