(雑感)蒸し器というお話。

シリコンも電子レンジもずっと前からあったのに、なぜ今になって… - 人力検索はてな
こちらのご質問から派生して蒸し器に関する話をちょっと書いてみようかと思います。蒸し器という調理器具は以下でも記述しますが『米主食圏』には重要な調理器具ですのでその歴史などについてはおそらく食物史や文化史関係の大著が成されているものとは思うのですが、ここでは昔聞かされた話なんかをまとめてざっくり書いてみたいと思います。

 つまり、何をいいたいかと言うと、ろくに調べずに書くから安易に信じないでね、という事。


 さて。
 上でもチラッと書いてますが、現在世界では穀物≒主食の大きな文化圏が4つ存在します。それらは……、

1)米(東・東南アジア)
2)麦(中央アジア〜ヨーロッパ、北アフリカ
3)タロイモ (アフリカ・アジア・ミクロネシアの一部)
4)とうもろこし (南アメリカ

 と、こんな感じでしょうか。この他にもジャガイモという重要作物も存在してはいるのですが、それは南アメリカが発祥で、麦文化圏に飛び地した……早い話が大航海時代にもたらされたそれがアイルランド・イギリスやドイツに移入されたというお話になるのでここでは割愛します。

 んで、この4つの中で実は米というのは非常に特異な穀物だったりします。例えば麦やトウモロコシが『製粉』されて食べられるのに対して米は脱穀したものをそのまま調理し食用されんですね。タロイモもそうじゃない? と言われそうですが、タロイモ穀物じゃないですよね? と逃げておきます。あと、タロイモは確か煮るとか焼くとかした後につぶすというような工程をとる所もあったはず。いやま、それを言い出したら米だって粉にすんじゃね? という話もありますが、昔々のその昔を話題にしたいのでご勘弁ください。当時米を粉にするというのは主食に適さない細かい米や割れ米を無駄にしないための技法だったと思います。あとは製菓材料への転用とか。*1


 まぁ、そんなこんなで蒸し器の話に戻ります。
 蒸し器というのは最初、米を蒸して食べるために使われる道具として発生します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91
 Wikiですけどねー。『甑』という道具がその最も初期的な物といえるでしょう。これは我が国でも、稲作文化の伝来と同時に導入されます。……つまり、弥生時代にはもうすでに存在してくるんですね。基本機能としての湯を沸かす道具とそこから上がってくる蒸気で食材を調理する為の道具という組み合わせが蒸篭や蒸し器に派生していきます。
 蒸篭が出てくるのは多分室町時代あたりからということなのでしょうかねぇ。というのは、蒸篭を用いる職業というのは実はお菓子屋さんなのです。中国の小麦文化圏からマントウが移転されてくる際に伝わってきたんだろうと思います。ですので、仏教の流れと同じ足跡になるはず。饅頭ですね。饅頭を『蒸す』には蒸篭のような道具が必須となります。ちなみにそばもこのあたり。導入当時、蕎麦掻で食べられていたそれが、室町〜桃山時代には菓子職人さんの手によって今の麺形態になってきます。『セイロ』というのがその名残。その当時そばは蒸し上げて食べるものでした。日本料理というか、現在の会席/懐石が発生したのは桃山〜江戸期という事になりますもんで、蒸し器も当然のように料理にも導入されてきます。というか、多分料亭『八百善』さんあたりから出てくるはずですし、江戸のうなぎは蒸し器がないと調理不能だったりするんですよねー。

 という訳で、蒸し器というものは弥生時代には日本に入ってきていた、というのがこのお話の主題。
 そしてその普及地域は米を主食として食べる地域ならば大抵あるのだけれども、他の文化圏においてはそういう調理作業が必要でなかった〜パンは焼く〜ので、あっちラ変に蒸し器はなかったんではなかろうか、という事になります。……フランス料理の基本技術見てても『蒸す』というものに当たりそうな調理法がないんですよねぇ。このあたりはそっち系の方にお聞きしないと実はなんともなのですが。


 所で、小麦文化圏にはあるのだけれども米文化圏には存在しない調理器具というか設備があります。それはなんでしょう? これは問題として本文をくくり、自分も近日中に何か書き物をする枷としておきたいと思います。

*1:この辺りを言い出すと、例の大誤報『パンがなければ〜』に行き着けなくもないのですが、それは別の話。

(mixi自己日記より転載)ネパール人店長殺害事件について

 ある方の日記を見ていて衝動的に思ったことを書き連ねてみる。
 いや、常々思っていることでもあるのだけれども。


 1.集団狂気化
 と、いうのは、悪ふざけのつもりというか、この場合は集団である事から発生した凶行……連合赤軍連続リンチ殺人事件のように、ある集団内においてより過激な行動をとった方が偉いという価値観が成立してしまった場合、誰もがその行為から抜け出す事が出来なくなる。たとえ個がそれはやりすぎだと思っていたとしても、集団内の相互監視がその歯止めをあっさり打ち砕く。もしここでやめてしまえばその非難が自分に向くのではないか? で、あるならば自分はこの集団の中においての地位を失ってしまうのではないか? という恐れも発生する。そして凶行はエスカレートする訳である。

 過激であれば過激であるほどその行為は集団内において尊いとされる風潮は別にこういったところだけで発生するわけではなく、政府批判などを行う集団内においても度々見られる。その場合、その行動は『絶対正義』の後ろ盾を得てさらに過激化する。当然そこには歯止めなど発生しないし、で、あるならばより非道であるとその集団内において認識された人間・組織を叩くに遠慮はなくなる。もしそこで攻撃対象の構成員から自殺者が出たとしても、それは『当たり前』の事であり、『快挙』として認識される事すらある。当然相互監視の目から転向したりその行動に疑問を持った人間への攻撃も頻発する。

 日本軍が云々かんぬんだの抜かすやからも結局はその理屈で動いているというのは間が抜けているというべきか、なんというか本当に途方にくれてしまう。『ミイラ取りのミイラ』というのはそこいらじゅうに転がっているものだと思う。


 2.お手本に習う
 もし、刑事ドラマやサスペンスがなければ犯人は東京に逃げなかったのではなかろうか?
 当然ながらフィクションをフィクションとして楽しむ事が出来ない人間はフィクションを見る資格はないのだけれども、案外そういう人間は多いのかもしれない。

 人間の行動というものは大抵お手本というものがある。ある行為を行うにおいてその行為がまっさらなオリジナルであるという事は全く持ってまれで、何かしら予備知識というか、何かを真似てしまっている。

 本件においても多分そういうものなのだろう。犯罪を犯したら逃げなければならない。できることなら可能な限り遠くへ。木の葉を隠すならば森の中。他者への関心の薄い場所へ逃げようとするのはおおよそそういうドラマから得られた知識ではなかろうか、と思う。

 この辺りを深く考えるととある問題において我が敵対者を利しかねないのだけれども、そのあたりは一応冒頭の論でクリアしていると思いたい。


 3.素朴な宗教観の喪失による問題

 素朴という言葉は諸刃の剣ではある。なぜならばそれは大抵の場合理論背景を持たない。『私が思っているのだからそれでいいのだ』というのが素朴の正体であり、それは個人の価値観におおむね立脚した判断体系だと思う。

 まぁ、それはそれとおいといて。

 なんというか、人を殺すな傷めるなというのはある年齢になったら当然会得しておかなければならない倫理観の一つであろう。
 学生時代、同期の友人が『殺人が違法なのは為政者の保身だ』と言っていたが、集団を構成する際、殺人を禁忌としておかなければそれは立ち行かない。殺さないというのは、それは相手から自分が不意に殺されないという保障と同等であり、だからこそその禁を破ったものは罰せられるという仕組みが出来上がっている。他者を不意に殺しても構わない世界は個々が自衛を旨とする為組織として成り立たない。これは人をだまさないという禁にも通ずる。だましても構わないという世界であれば取引というものが成り立たない。これは現状を見ればわかりやすい。偽っても構わないのだという心理の下、自己の利益だけを追求する社会は停滞し発展しない。某マンガ家さんがその著作の中で『裏切り者だらけの世界では分捕るべき富の蓄積が生じない』と言っているのだが、これはまさにそうだと思う。このあたりはゲーム理論で証明されていたのではなかろうか? あれも結局は多数の正直者の世界であれば裏切り者が優位という結果を示してはいたけれども。

 話がそれた。

 確かにまぁ、幼児が虫や小動物を弄っているという光景は時々目にするし耳にする。私も小学生の頃、トンボの羽を毟って遊んでいる友人やカエルのおしりに爆竹を突っ込んで点火している上級生というものを見た。私もそれ相応の事はした記憶もある。ただ、あの行為は後にえとも言われぬ罪悪感を感じるものではなかろうか? と思うし、無為に命を殺めればそれを知られた暁には自分もそれなりの苦や罰を受けるものである……筈だと思いたい。
 私がここで疑問符を浮かべたのは、どうもいじめ問題に関する話を聞いているとどうもそれを社会性や社会優位性を身につける為の必要悪として虐められる側を叩いたり、その事象を容認する発言を時折見かけるからである。確かにそういう側面はあるかもしれない。が、それを大っぴらに認めていいものか? それはその行為を容認し肯定・助長するものではないのか? という危機感が今私の中にある。
 老子の中に確か『盗賊の道』という話があったように思う。それは孔子批判だったと思うのだけれども、君子に『道』があるように、盗賊にも『道』があり、それは犯してはいけないものであるのだ、という話だったと記憶している。もし記憶違いであるのならご指摘いただきたい所ではあるが、なんというか、先の自論と対立覚悟で言うのだが、一般人から見て非道を行う集団の中においてもそこにはやはり『道』があったはずだよなぁ、と思うのだ。素人さんには迷惑をかけない、それが極道の流儀だったと思うし、あの集団はかの7字を重要視していたと思う。だからこそ仁義だといったはずだ。

 どうも今は『道』が失われ、自由というものが無軌道で無責任なものになりすぎている気がする。『誰か俺が迷惑をかけたか? もしこれが迷惑だと思うのならばそれはお前が俺に自由を束縛しているに過ぎないからお前が身勝手なのだ』という論調も時々聞く。
 なんというか、馬鹿にするなと思う。
 いや、馬鹿なんだろうな、と思う。

 このあたりは自己の確立……他者と自己の分離が出来ていないのだという話を時々聞きもするのだけれども、個人的には他者の心理を想像できない、想像力の欠如だと思う。それが分離が出来ていないという事だといわれればシャッポを脱ぐ。最近は現場にいるので帽子をかぶっている事が多いので脱ぐ。ただし現場では脱がない。



 ともま、つらつら思うことを書いてみたのだけれども、多分こんな論はありふれたものなんだろうな、とも思う。おおよそ世の中には真のオリジナルというものはないのだろう。オリジナルとはある物事に対する自己の視点による解釈に過ぎないという文言をどっかからかともなく引用して本論を閉じる。
 犯人達に極刑をとは思わない。
 ただ、亡くなったネパール人店長さんとその後家族の平穏を祈るばかり。
 犯人はそれを償う義務を負うとは心の底から思いもする。

(雑記)穢れと日本人と言う話

 先日、福井新聞を読んでいたらそういう感じのコラムが掲載されていた。どなたが書かれたのかは失念してしまったのだけれども、宗教家の方だったか? ちょっと記憶が混同している。

 その要旨はこうだった。
 東日本大震災で発生し、今なお懸案となっている福島第一原子力発電所事故。これにより広範囲の地域が放射性物質に汚染された。セシウムは流せばなくなるものではない。水に流す事が出来ない穢れである放射性物質に日本人は苛まされており、これは日本人のアイデンティティーを見つめなおす契機となるかもしれない。
 もちろんこの要約はその読後に色々頭の中でこねくり回した話であるので、その内容が変異している可能性は充分にある。残念ながら何時の新聞だったか、それを取り置くことを忘れていたために正確な内容はわからないし、そのコラムを書かれた方の他の文章も読んでみたいところではあるのだけれども、その手段も今手元にはない。図書館にでも行って調べれば良いのだけれども、それを行う体力もない。

 さて。
 ここしばらく人力検索はてなの方でkoko24さんの質問にお付き合いさせていただいている。
 今回のお話はこれ。
http://q.hatena.ne.jp/1316779717
 問題となっている文章は典型的な『血液浄化商法』の一つであろうとも思う。ただし、今回問題となっている商品は従来のそれとは違い、それほど高額な機械でもない。『玉ねぎ食べて血液サラサラ』とか、『この食品を取り続ければ万病の元となる動脈硬化が回避できる』とか、そういった話は彼の『あるある大辞典』などでもよく取り上げられ、健康番組などではもはや定番な気もする。……以前チラシを見ていたらふとん屋さんが採血して血液の粘度を測るのだという話を見て、おいおい大丈夫かと思った事もあるのだが、この辺りも『穢れ』に纏わる話なのかなぁ、とも思っている。

 『目に見えない何か』が『あなたの健康を阻害する』という話は、その何かが五感では凡そ捉える事が出来ないことからその話を受け取った人に大きな危機感を与える。
 訪販などでは『ニードストーリー』というものがある。これはその商品が顧客に必要であるのだと訴えるための話を指す。そしてそれは大抵顧客の危機感を煽る内容となっている。台所乳酸菌液でセシウムを体外排出という話もあった。そこにセシウムはあるのか? それをその受け手は知る術がないのだが、連日セシウムセシウムと聞かされていれば、それはあってもなくてもあるものと認識されるだろう。だからそれに危機感を覚えている人たちはそういういものに飛びつく。『穢れ』をはらうために『禊ぎ』を求める構図なのだろう。この場合、その行為によって何らかの反応が出ることはそれが利いている証拠として歓迎される事すらある。水垢離は寒さに震えなければ意味がないのだ。

 そういう辺りにおいて、彼のコラムは秀逸だったと思う。『穢れ』を『疎む』国民性は様々な問題に蓋をし、放置し、理解し改善しようという態度を遠ざける。そのお陰でどれほどの問題が今私たちの目の前にある事か。人々はそれをないものとして生きてきた。解決を求めるものの、その解法は考えない。この辺りはお上思想になるのかも知れないけれども、その態度はやはり穢れを疎む志向から成り立っているようにも思える。


 原発の安全をと叫ぶ人々。安全神話という仮想に全てを委ね、騙されたと泣き叫ぶ人々。全ては電力業界や官僚、科学者が悪いのだと憤る人々。今回読んだコラムでなんとなくその背景が見えた気もする。

『乳酸発酵』ってなんでしょう?

 『発酵』とは、人類に有用な細菌や酵母*1が食物などを有用な形に変えてくれるという現象です。アルコール発酵(醸造)や味噌などの発酵もそうですね。アルコール発酵は『酵母』が、味噌などの発酵は『コウジカビ』がそれぞれ食物に含まれる物質を分解して別の物質を作ってくれたり、タンパク質やデンプンなどをそれぞれアミノ酸や糖にしてくれたりします。パンの発酵は酵母が糖を分解して二酸化炭素とアルコールを作ってくれる作用を利用したもので、主に『二酸化炭素』の産生によってふっくらとしたパンが焼けるのです。これは『炭酸発酵』と言うのですが、これは今回は別のお話。因みに、人類に有用でない細菌やカビが食物をダメにしてしまう現象を『腐敗』といいます。
 
 『乳酸発酵』は前項でも触れましたが、『乳酸菌』が『乳酸』を作り出す性質を利用した『発酵』技術です。これにより私たちは夏に取れた野菜を冬でも食べられるように保存したり……ラッキョウや梅干、ピクルスですね……、傷みやすい牛乳をヨーグルトやチーズとして長く食べられるようにしています。
http://www.eonet.ne.jp/~nakacchi/cheese.htm
 ちょっと難しいかもしれませんが、チーズ作りを解説しておられるサイトです。

 『発酵』という技術は難しいもので、例えばぬか床がだめになるとか、梅干にカビが入るとか、そういった失敗が結構つき物だったりします。『発酵』とは雑菌との闘いなのです。


 以上、簡単にまとめてみたつもりですが、なにかわからない事があればコメントなりTwitterなりでご質問ください。



<コラム>人体の常在菌について
 人体には数多くの細菌やカビが棲んでいます。

 例えばヨーグルトのCMなどでよくお聞きになるかと思いますが、腸には数多くの菌が棲んでおり、食べたものからビタミンを作ったり、消化を助けてくれたりしているのですが、これらはいわゆる『善玉菌』の仕業(?)です。一方『悪玉菌』はメタンガスなどを作り出し体に悪い影響を及ぼします。が、これらもバランスが肝心で、善玉菌だけでも悪玉菌だけでもヒトは病気になってしまいます。また、この『悪玉菌』や『善玉菌』、それ以外の菌などをひっくるめて『腸内細菌』と言うのですが、これらは腸でヒトの免疫システムを鍛える役割も持っています。なんといいましょうか、人の免疫細胞である白血球やマクロファージにとって、腸内細菌はスパーリング相手とも言うべき存在なのかも知れません。

 また、皮膚表面などにも細菌は棲んでいて、例えばニキビなどはこの細菌の一つが毛穴に入り込み、そこにある皮脂腺で増え、炎症を起こすために起こります。おできなんかもそうですね。ただ、これも皮膚は細菌を利用して他のもっと危険な細菌(特にカビ……水虫菌やカンジタなど)を撃退しようとしている所もあり、そのバランスもむやみやたらと弄ってしまうのはよくないことでもあります。

 乳酸菌培養液(増やした液)を皮膚に吹き付けるということをやっておられる方もあられるそうですが、これは皮膚表面の細菌バランスを崩す上に乳酸菌が作る乳酸≒酸を吹き付けているようなものですから、これは決して皮膚によいものではありません。ひどければ皮膚炎や湿疹などを引き起こしますのでお止めになられる事をお薦めします。

 因みに皮膚は放射線や紫外線などに対しても有効な防護システムで、高エネルギーの紫外線などを受ければ赤くはれ上がって日焼け(あれは炎症なのです)を起こしたり、あまり強いものに当たればはがれたりしますが、ごく一般的なものであれば充分に止めてくれ、人体を護ってくれます。どうかあまり過敏になられませんよう。
 もちろん高度に汚染された地帯では何らかの対策を採るべきですが、少なくとも現状においては、日本の大部分ではそこまでの心配は必要のないものであると考えます。

*1:酵母はカビの一種で、真菌という最近とは違ったものです。キノコの仲間ですね

『乳酸菌』ってなに?

 有機酸の中でも、酢酸と乳酸は主に『発酵』といって、微生物に食物から作ってもらうことが多いのです。今回は特にその中でも乳酸を作ってくれる『乳酸菌』について考えてみたいと思います。

 『乳酸菌』と人類の付き合いは古く、日本ではお漬物、特にぬか漬などで利用されています。西洋や中央アジアなど、牛や羊、ヤギなどの乳を盛んに利用する地域では『ヨーグルト』など、『乳酸菌』を利用した食品が数多く存在します。
http://www.danone.co.jp/health/bacteria/lactobacillus/lactobacillus.html
 こちらはヨーグルトで有名な『ダノン』のサイト。乳酸菌の解説がありますのでご一読ください。

 『乳酸菌』は『乳酸発酵』によって『乳酸』を作り出してくれるどこにでもいる『細菌』です。
 最近ではあまりぬか漬を作るご家庭も減りましたが、『浅漬け』とか『古漬け』という言葉はご存知でしょうか? 『浅漬け』とはこの『乳酸発酵』を短い期間行ったお漬け物、『古漬け』とは長い時間行ったもので、古漬けは歯がカシカシするほど酸っぱいものが多いのですが、これは『乳酸菌』が作り出した『乳酸』がより多く含まれているという状態なのです。

『乳酸』ってなんでしょう?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B3%E9%85%B8
 『乳酸』とは有機化合物(炭素原子を中心にした化学物質)の一種で、広く生物が産生する物質です。例えば、近年では筋肉の疲労物質≒激しい運動をした後に筋肉にたまり筋肉痛を引き起こす原因になっているというような話も出てきたりしています。
 有機物(大まかに言って、生物が作り出す物質)の中で、特に酸性を呈する物質は『有機酸』とも言われますが、乳酸や酢酸(一般的に我々が調味料として使用しているお酢)やクエン酸(レモンなど、柑橘系の酸っぱさ)、リンゴ酸(リンゴなど、果実に含まれる酸)がその『有機酸』で、これらを有史以来、人類は様々な形で利用してきました。

はじめに

 某所にて、『乳酸菌がいいらしいのだけれどもそもそも乳酸て何?』という疑問があがっていると言う話をお聞きしました。本文章はこの『乳酸』と『乳酸菌』について簡単に解説してみたいと思います。